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軍鶏

 投稿者:久保 俊彦  投稿日:2017年11月 1日(水)14時06分57秒 rdcofw00.sekisui.jp
返信・引用
          軍鶏(しゃも)                        19


鳥篆にある示準
爪先(つまさき)立ちの均整のとれた鳥影(シルエット)
わずかな余熱とともに
埋もれた体温をよびさます

 今暁(かわたれ) かれは……

命題は忘れられていく記憶の中で 衝撃へと換わる
そして 平易な言葉がこめかみを貫通する
冷えた体温を呼び覚ます居場所
問いかけられることのない
環俗した視界
激しい動悸に聞き耳をたてていた……
思いもかけぬ鈍い歩行
蒸し焼きされる
軍鶏!




              鳥篆…造語。篆は書名だがめぐらす意から軍鶏全体
                 をめぐる内容。

 
 

関東同人雑誌交流会賞

 投稿者:わだしんいちろう  投稿日:2017年 7月13日(木)08時01分12秒 KD106166213162.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  2017年7月2日関東同人雑誌交流会にて、「関東同人雑誌交流会賞」の創設が決定した。
候補作6点の中から、投票により「白く長い橋」関谷雄孝(『カプリチオ45号』)が、第1回関東同人雑誌交流会賞に決定した。
ただし、副賞はありません。ただ、所属同人誌は、各同人誌上のどこかで、このことをお知らせすること。
賞を受けることばかりでなく、自分たちで賞を創設して、世に問おうという試みです。
 

(無題)

 投稿者:文学愛好家  投稿日:2014年 7月13日(日)07時33分10秒 pw126205153206.3.panda-world.ne.jp
返信・引用
  肉食系読書家の池澤春菜は字が汚ない!!
東京創元社のツイートより。
 

第8回「まほろば賞」関東交流会推薦枠候補作決定のお知らせ

 投稿者:アジア文化社 関東同人雑誌交流会担当  投稿日:2014年 6月11日(水)12時13分30秒 p43faaa.tokynt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
  いつもお世話になっております。
過日開催いたしました第14回関東同人雑誌交流会にて、
第8回「まほろば賞」の関東交流会推薦枠候補作が決定いたしましたのでお知らせします。

☆辻村 仁志「ゼロ時計」 「空とぶ鯨」14号

各候補作の得票数は別途お知らせいたします。
また、全国同人雑誌におけるまほろば賞候補作につきましては、
7月発売の「文芸思潮」57号に掲載予定です。

以上、どうぞよろしくお願い致します。
 

第14回関東同人雑誌交流会開催のお知らせ

 投稿者:アジア文化社 関東同人雑誌交流会担当  投稿日:2014年 5月30日(金)13時33分52秒 p43faaa.tokynt01.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
  お世話になっております。
下記のとおり、第14回関東同人雑誌交流会を開催いたします。
つきましては、関東の同人雑誌の皆さま方でご参加希望の場合は、
アジア文化社(03-5706-7847 bungei(a)asiawave.co.jp)までご連絡願います。
※メールアドレスの(a)は@に変えてください
よろしくお願い致します。

日時:2014年6月8日(日)13:00~
場所:大田区民プラザ3階 第1会議室 http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/plaza/access/
内容:第8回全国同人雑誌最優秀賞「まほろば賞」の関東同人雑誌交流会推薦枠選考
参加費:500円

<「まほろば賞」関東交流会推薦枠候補作>
・河井 友大「過去に生きる女」 「銀座線」19号
・佐々木欽三「通夜の疑惑」 「街道」23号
・木下 径子「持って行かれたもの」 「街道」23号
・平野 潤子「存在」 「時空」40号
・福島 弘子「遠い飴」 「時空」40号
・辻村 仁志「ゼロ時計」 「空とぶ鯨」14号

 

“春三月” 間島康子/『駅』98号

 投稿者:荻野央  投稿日:2014年 4月25日(金)18時25分16秒 h219-110-144-084.catv02.itscom.jp
返信・引用 編集済
  涙とか、月、花を並べれば歌の詞はいくらでも可能だという嫌味な意見がある。事実そうなのかもしれないが、では、涙を詩にしたり、花を讃美したり、月の狂気を呪うのは簡単そうで、実行して詩作してみると意外に難しいのだ。『せんせい、あのね』に綴られる子供たちの無垢なる詩精神が、わたし(荻野)の詩精神なるものが手垢にまみれていることを知らせるときである。しかし手垢にまみれているから、と内的に謗ってみても純粋な心の在り様は結局ごまかすことはできないのだ。たぶん引き下がってはいけないのだと思う。

子供の結婚は親にとって最大の幸福の一つである。
幸せの絶頂は本人(たち)の専有物とは限らない。親は彼らより当事者意識が強いので、いたたまれないくらい専有する欲望が強いのである。親には子供の幸福の断片を貰う必然性があるというものだ。

“あたたかい場所へ行く/という感じが/どうしたってしてくる
雲の上を飛んでいる/窓外のその雲も/空も/ゆるむような色を/伝えてくる

その先に/娘の婚礼がある/小鳥のようにさえずる娘の心を/喜色満面で聴いている青年が現れ/その日が/すぐそこにきている
そうか/君は/南の島で/花嫁になる”

ここに在るのは限りなく注がれる愛と或る予感である。予感とは、娘の幸福の詩を語っている人になだれ込ませるであろう彼らの幸福の断片のことだ。それはストレートに喜ばしい予感であって、聞きなれてうんざりする不幸とか悲しみの哀歌と同等の価値を膨らませるものである。
ふと見ると、この世は濁っているばかりに見えて、溜息だけしか溢れない街に生きるのは苦しい場合が多々ある。だから幸福はまんべんなく降りかかる太陽の光のようにあれかし、と希望する者たちへ詩は何を為しうるのかと思う。

“生命の息吹/溢れる場所で/澄んだ色の/空と/海と/風と/やさしくゆれるものに包まれて”

「ゆるむ」とは弛緩、「ゆれる」とは揺籃。いずれも子供への愛の断面を歌うもので、とうに崩れているのかもしれない(忘れられたような)詩の持つ機能・・・無際限の讃歌を、初めて見たような錯覚におちいる。

作者は、いっけん穏和に見えかねない詩の雰囲気に、独特の美意識と鋭い言語感覚を盛りこむ詩人だが、今回は別の一面を見たような気がした。
 

“ふうさん” 中山茅集子/『福山文学』26号

 投稿者:荻野央  投稿日:2014年 4月 6日(日)13時44分39秒 h219-110-144-084.catv02.itscom.jp
返信・引用 編集済
  若い頃に自分の恋人を奪った男、金江草太が主人公、良助の前に50年ぶりに姿を現し、これを見てくれと一冊の本を出した。分厚い「蓄音器の歴史」という本。草太は奪った女とは別れたという。ふうさんを覚えているかという草太の問いかけから始まるこの小説では「戦後」が語られる。”ふうさん”と呼ばれる「女になった男」を通して、ひとつの小さな逆転の物語りなのだ。または倒錯の身の処しの物語と言ってもいい。

戦時中、学徒動員で良助は或る工場で働かされていたが、その工場で一緒に働いていた福太郎という大人を覚えていた。福太郎は「仕上げ工場で働いていた。そこは女たちで占める作業場だったから、ふうさんはたった一人の男だった。当時の男の制服だったカーキ色の国民服を持たない彼は縞の木綿絣の着物に前垂れを締め、小柄な体つきの上に内股で歩くので、女たちより女っぽかった。男名の福太郎より”ふうさん”が似合った」大人だった。
そして終戦。良助は役人になり、或る夜に小さな居酒屋で飲んでいると、カウンターの向こうの知らない”女”から芋焼酎を奢らされた。あんた誰だい、俺、知らないなと訊くと、”女”は、忘れたのかい、一緒の工場で働いていたじゃないか、とふふふと笑うのである。それは福本福太郎との再会であった。しかし男がどうしたわけか女になっていたので良助は驚く。そして酷く酔っ払ってしまう。

“(悪酔いした良助が道端で吐いている。ふうさんが介抱している場面)
「あ、あんた、ふうさんか」
「やっと思い出してくれたんか」
「ほんまに、五年しかたっとらんのか」
「ほうや」
「たったの五年で男が女になれるんか」
(中略)
着物の両袖を胸元にかき合しながら見上げた。二人が暗い路地の奥の棟割長屋で向かい合ったとき、良助ははっきりと思い出した。男だった時のふうさんを。”

そしていま良助と「憎き」草太は喜寿を前に死んでしまった、最後は老人ホームにいたふうさんの息子の家に向かっている。息子は父親と再会したとき、髪結いとして生活をし、また婚礼の場所などで重宝がられ、着付け、髪結い、三味線をつま弾き、望まれれば踊りを披露して生きてきたということを知った。また女装していることも。
息子の妻の前で二人は座り、草太はふうさんの遺品に蓄音器があるはず、あれば見せてほしいと懇願する。しかしふうさんの息子の家にはそれは無かった。それでふたりは老人ホームに行くのだが、その途中ふたりは女になった理由について話し合うのだが、そのとき戦後がゆっくりと俎上に登ってきたのだ。
玉音放送の流れる声の主とその内容が分からないことに苛立つ二人がようやく戦争の終わりが分かったとき、勝利に次ぐ勝利というデマ報道に踊らされて旋盤に取り組まされていたことに腹を立て日本の負けを思い知らされ、米軍の本土占領、男は殺され女は辱めを受けるなどの考えが渦を巻いて良助は切腹しようと考えるのだが、日本人の壮大な死の騒ぎのなかで、福太郎はふうさんに変貌していたのだ。腹も切らずに生きている自分たちに比べて、女になったふうさんの覚悟の中身を二人は推し量っている。その意味はいったい何なのか。

“戦争のさなか、男のふうさんは職場の男に小突かれ女に哂われながらも雑炊弁当をすすってお国のために働いた。負け戦がふうさんの何かを変えたのだ。男の見切りをつける何か、熱い意地のような何か。”

“あの狂気の夏。(中略)
「あの頃は俺たちだって、死ぬことはなんかへっちゃらだったろ。ふうさんは腹を切る代わりに女になったんだ」
「かもしれんな。天下がひっくり返ったんだからな」
草太がぼそりと言う。”

読者は、ここに逆転ないしは倒錯の「意志」があることに気づく。戦前は愛国少年だった井上光晴が左翼に転ずるようなその転じぶりは、ふうさんの女装にもあったのだ。その転じぶりは福太郎自身の戦後の生き方を体で示すものだったろう。肉体的「転向」は旧には戻すことは容易ではないことだろうから、身振りの決意はとても強いものなのだろうと思われる。たとえ実の息子から、「髪結うて女ものの浴衣を着とった」父をお父さんと呼べやしないと呆れられて蔑まれても。福太郎はふうさんの姿勢を崩さなかった。つまり彼には彼の強く熱い意志があったのだ。
ところで草太は蓄音機に拘っている。持参した「蓄音器の歴史」という本に草太は何台か著者に献じている。彼はふうさんの遺品のなかに蓄音器があることを覚えており、どうしてもその機械に会いたいというわけである。
ふうさんの蓄音機は老人ホームの彼の居室に残されていた。訪問を受けた園長代理の男はありますと答え、なるかどうかは分からないと言うと草太は、それはどうでもいいことだと答えた。押し入れから取り出された機械を見て草太は冷然としている。つまり「掘り出し物」「逸品」の類の、本に掲載されていないものではないことが分かると草太は結構です、と言う。儲けにならないというわけである。しかし良助はそうはいかない。良助はその蓄音器に載せられているレコードの音楽をどうしても聴きたくなっていた。ふうさんはどんな曲を聴いていたのか。
ハンドルを回してみたが手ごたえがない。ゼンマイが切れている、と草太が言い、同室だった少し痴呆症になりかけのおばあさんがいびきをかき始めている。諦めようと腰を浮かした良助の耳にふうさんの声が聞こえた。「ゼンマイを巻きんしゃあ」。全力でハンドルをぐるぐる回す。すると音楽が流れ出した。戦前の流行歌「野崎小唄」である。蓄音機はこの小唄の途中で力を失い何年も止まったままだった。小唄に合わせてこの居室でふうさんは女装して踊っていたのではないかと良助は空想する。レコードの鳴りやむまでふうさんは踊っていたことを改めて思い、これは俺にくれというところで小説は終わる。

終戦の玉音放送の日から、蓄音機が力を失い、野崎小唄が止り、踊るふうさんの姿が、良助の脳裏に貼りつけられるまでの長い時間は、この老人ホームの一室でうずくまったままなのだった。つまりふうさんのなかで「止まっていないあの日からの時間」に満たされていたということになるのか。
戦後をめぐる膨大な小説と批評の群れの一隅に置かれてしかるべき、まだ掘り返されていない人々の記憶が無形有形を問わずして出番を待っている。語り継がれようが継がれまいが、時間の風土として日本人に含まれているはずなのである。古い人に新しい人に。
この小説は、その意味で、見事に発掘されたひとつ。逆転、倒錯の道もまた一つの戦後の時間の処理として読まれる小説である。
さて、戦争体験は体験から経験へと昇華しない限り無意味なものになることを肝に銘じておかねばならない。ふうさんは無意味であるどころか女になることでその警告に応じていると言える。
優れた小説を読ませてもらった。
 

市原礼子の詩集『愛の谷』を読んで

 投稿者:荻野  投稿日:2014年 2月24日(月)11時38分51秒 h219-110-144-084.catv02.itscom.jp
返信・引用 編集済
  (どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

「日記」

"目覚めのまえの/肩のあたりに/ふわっと何かがおりてきた/ベッドもゆれたのに/なにもない
となりの部屋で/高いところから跳び下りる音が/ドサッ
ある疑念を持ってから/不安な気持ちがおさまらない/疑いを問いただす言葉も/口にできない/不安が臭いを発している
狭隘な世界の/きわめて私的な/日記のような詩
書き続けることで/生きていく力を育てる"

眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

「小さな死」

"オレンジはたおれていた/人がねむるように/わたしはとおりすぎた/さわることもしないで だから/オレンジはたちあがり/どこかで生きているのではないかと夢想する
死を確かめることなくとおりすぎた/だから 小さな死はどんどん大きくなり/どこまでもひろがってしまう
/小さな死が満ちている/みずみずしく いとおしく/まるでいのちのように/死の横には いのちが/いのちの内には 死が
果実が落ちるようにぽとりと/たおれていたオレンジは/わたしの内の死になって/わたしのなかで生き続ける
夏草の陰に/石垣の向こうに/側溝の下に/生きていることを夢想する/オレンジ色の子猫"

偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

「家族」…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

「リビングルームの一日」…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、「遠い杜」。

「遠い杜」

"空の片隅をめざして/への字のかたちで帰っていく/鳥たちよ/あの方角に わたしの/残してきたものがある
わたしは ほとんど忘れている/わたしは 急に思い出す/降るように 降るように戻ってくる
黒緑色の木の群れ/光りざわめく枝葉の下/柔らかく かぐわしいものを抱いて歩いた/わたしのお気に入りの散歩道
明るい色に塗られた遊具のある/小さな公園への通り道/しかし そこは/死者の葬られる場所でもあった
わたしのうでの中で青ざめて/息も絶えようとしているのだろうか/それとも 葉陰で すやすやと/眠りにおちているのだろうか
生と死の両方を胸に抱いているのに/それらは双子のように/よく似た顔をみせていて/見分けることができなかった
暗い杜 明るい杜/死者達の眠る杜/空の片隅をめざして帰っていく/鳥たちよ/あの杜は いまでも/風に 揺れているか"

鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。



(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。


(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。

(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。










 

人間像 183号

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2014年 2月 6日(木)11時57分10秒 p1081-ipbf2504sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  評論 宮沢賢治の秘密  根保孝栄

この作品を興味深く読んだ。賢治の作品に共通して流れる透明性について論じている箇所はとりわけ面白い。彼の作品にはどれも不思議なくらい艶めいた部分がない。男と女の生々しい蜜事が取り上げられていない。瑞々しいい中性的な美しさ。詩的童話の世界は世界的に見ても稀有であり注目に値すると指摘している。もし彼が英語圏に生まれていれば世界的に注目された作家になっていたかもしれないが、日本語という障壁がそれを成し得なかったというのは真実だろうと思う。フランスのル・クレジオの作品にも賢治と似たような感性を私は感じるのだが、彼は世界的に知られてノーベル賞をとった。やはり言語の障壁というものは大きいのだろう。根保氏は賢治の俳句や短歌の作品がどのように評価されているかを論じながら、多くの日記的秀作の多い中にも傑出した才能を感じる歌が散りばめられていると指摘する。私は今、「岐路 ある日の宮沢賢治」と題して小品を書いている。これは賢治が農学校の教員をしていたときに苫小牧を二十六人の生徒を連れて訪れたときの一夜を書いたものだが、根保氏の評論は大へん参考になったことを申し上げておく。
 

今日の歌

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2014年 1月28日(火)13時48分51秒 p1081-ipbf2504sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  文芸えりも代10号

扉の中で時を刻む   星 まゆみ

時を数えて目を閉じる
私に見えない扉の中で
不安の影が渦を巻いてもがいている
語りかけても語りかけても
扉はいつも閉じたまま
かたくなに閉ざした黒い影
一つ一つと数を増し
黒い大きなかたまりが
息もせずに潜んでいる
さらなる不安が私を襲う
渦が巻き起こす風の音も
黒い影の気配さえ
今は何も感じられない

扉の前の足跡が
最後のあなたの存在かのように
私の中に焼きついて
今も消えずに生きている
 

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