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市原礼子の詩集『愛の谷』を読んで

 投稿者:荻野  投稿日:2014年 2月24日(月)11時38分51秒 h219-110-144-084.catv02.itscom.jp
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  (どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

「日記」

"目覚めのまえの/肩のあたりに/ふわっと何かがおりてきた/ベッドもゆれたのに/なにもない
となりの部屋で/高いところから跳び下りる音が/ドサッ
ある疑念を持ってから/不安な気持ちがおさまらない/疑いを問いただす言葉も/口にできない/不安が臭いを発している
狭隘な世界の/きわめて私的な/日記のような詩
書き続けることで/生きていく力を育てる"

眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

「小さな死」

"オレンジはたおれていた/人がねむるように/わたしはとおりすぎた/さわることもしないで だから/オレンジはたちあがり/どこかで生きているのではないかと夢想する
死を確かめることなくとおりすぎた/だから 小さな死はどんどん大きくなり/どこまでもひろがってしまう
/小さな死が満ちている/みずみずしく いとおしく/まるでいのちのように/死の横には いのちが/いのちの内には 死が
果実が落ちるようにぽとりと/たおれていたオレンジは/わたしの内の死になって/わたしのなかで生き続ける
夏草の陰に/石垣の向こうに/側溝の下に/生きていることを夢想する/オレンジ色の子猫"

偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

「家族」…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

「リビングルームの一日」…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、「遠い杜」。

「遠い杜」

"空の片隅をめざして/への字のかたちで帰っていく/鳥たちよ/あの方角に わたしの/残してきたものがある
わたしは ほとんど忘れている/わたしは 急に思い出す/降るように 降るように戻ってくる
黒緑色の木の群れ/光りざわめく枝葉の下/柔らかく かぐわしいものを抱いて歩いた/わたしのお気に入りの散歩道
明るい色に塗られた遊具のある/小さな公園への通り道/しかし そこは/死者の葬られる場所でもあった
わたしのうでの中で青ざめて/息も絶えようとしているのだろうか/それとも 葉陰で すやすやと/眠りにおちているのだろうか
生と死の両方を胸に抱いているのに/それらは双子のように/よく似た顔をみせていて/見分けることができなかった
暗い杜 明るい杜/死者達の眠る杜/空の片隅をめざして帰っていく/鳥たちよ/あの杜は いまでも/風に 揺れているか"

鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。



(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。


(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。

(どちらかと言えば)感動したのは第二部の「遠い杜」部であると思われ、20年書かなかった時間を越えて「愛の谷」部は、或る一つのテーマにしがみついているような言葉に満ちた作品たちと思われた。自然に、単純に、寄り添ってテーマを語ってしまうから、読み手はそのまま詩人の言葉に耳を傾けるほかはない。つまり詩行が、それぞれ衝突したり矛盾したてり、摩擦したり、ぎくしゃくしていないから、ナチュラルに作者の感情に巻き込まれてしまう。するとなかなか感想が浮かんでこなかった。20年の絶筆の意義を作者はどのように考えているのだろうか?
“素直な”第一部で印象深い作品をふたつ掲げる。

"日記"…眠りのうちの「降りて来たなにかの感覚」「隣室の落下音」という幻聴感覚から派生しているかのような「疑念と不安」とは何だろう。「何だろう」と自問する言葉が口から出ることもなく、”特別な”匂いを放つと書かれると、これが一つの詩的興趣の”復活”の記念としてあるのだなと知らされる。
「愛の谷」という詩のグループに在るということから、空白の時間を突き破って現われた作者の情念のようなものを捕まえることができるから、狭苦しい日常から、瑣事から、日記のようにして言葉が詩に脱皮するのを祈っている様子がうかがえるのがよく感じられた。
作者の個人的な詩のルネッサンスというべきだろうか。

"小さな死"…偉大な死ではない、近辺に転がっている目立たぬ死のことである。倒れているオレンジ、がとてもいい。球形に近い”かたち”に「倒れている」という動詞がくっついているので、読者は気持ちよく混乱する。
木なのか果実なのか。でもそれはどうでもいいことで、要はオレンジの色のほうが大切なのだ。とりあえず木と果実の”かたち”を思い浮かべながらオレンジ色を思うと、そこからフルーティで甘酸っぱく、とても健全な味わいの「純粋」な観念を得る。
この作品では、そのような純粋な観念は日常生活からくるものでありながら、死の表象としても使われているので、廃棄されたオレンジを想像してしまうが、でもそれは矛盾している。
歩く(生きる)者(人間)は振り返らないので、見えない後方に散らばる死の表象を、敷き詰められた夥しいオレンジ色の死を思う。だけど、死のつながる生の兆しなのだから、その人の内部に新たな生命として再生していくのを感じているのは自然なことだ。摂理の一部であるとでも言いたいくらいだ。
まさに健全なオレンジのように瑞々しいものがある。美しい詩だとつくづく思う。

第二部は、意慾的な詩作品に満ちている
いわゆる日常性の”脆さ”に気づいて誌に作品は『家族』と『リビングルームの一日』である。この二編はセットとして読むと興味深い詩人の感触の確かさを得ることができるように思われた。
そして「遠い杜」における、死の概念を場所というの概念に差し替える視点が、とても素晴らしい。

"家族"…いつもの朝の「行事」のようなものが終わると、誰も家にはいなくなるという感覚。つまり主婦である作者の姿が消えて、お母さんと呼ばれることに無視する態度と合わさって、自分と最も密接な家族の紐帯を立ち切ろうとしている。そこから自らの深みに沈降して、真夜中の目覚めに繋がっていくところが、鋭く日々を意識の中で更新していく感覚が得られる。この鋭く尖った自己意識は、いつか「危機感」を懐胎するのではないか、と期待してしまう。

"リビングルームの一日"…深夜の零時を越えて日々の更新がおこなわれる。夜に取り出されたわたしの心が、その日の買い物の物品を収納している。これは朝の冷蔵庫にイメージが並行しているので面白い。収納した自分と、自分ではない冷蔵庫の客観的な在りようが並行していくと、家庭の「食」の礎の中心である母・妻たる「私」の「分化」が、その意味において「危機感」を孕んでいるからだ。本来は分化は無いのだが。そこが魅力になっている。

最後に、わたしがこの詩集で一番好きな詩、"遠い杜"。

"遠い杜"…鳥たちが帰って行く「空の片隅」に「残してきたもの」は何だろうか。その場所を目指す鳥の群れに呼びかけているのはどうしてか。のっけの連から「躓いて」しまい優れた詩の予感があった。ここに、読み手の詩的瞬間が訪れる。
あまりにも遠くて見えない場所(空の片隅)が、死の場所と思われるとき、見えないからこそかえって、忘れたり思い出したりする出し入れ自由の度合いに応じて、何処にでもある風景(たとえば公園みたいな)に変化して再登場する、ひいては日々の生活の細かなポイントすべてに「死の場所」が被さって来る。杜の遠さとはそのことだろうと思った。とてもスリリングな展開である。息絶えているのか、眠っているのか分からないあらゆる存在は、生きることと死ぬことの二つの意味を包括してそこ(遍く近辺)に存在しているということの促しの詩である。
両者は双子であるかのよう、とした詩趣は、なにか根元的なものの見つめる姿勢か、捉える視線の確実さを感じさせる。またその場所が揺れているかどうか、つまりいまだに二つの意味が生き生きと生々しくあるのか、と問う姿勢で作品は終わっているけれども、この生々しく感じたことは作者ひとりで決めることではなく、ひろく読み手にその決める自由を与えているのが自然に書かれている。素晴らしい作品だ、と思う。

(2013.12.21発行、発行所:詩画工房) ※市原さんは文芸誌「群系」の同人です。










 
 
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