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“ふうさん” 中山茅集子/『福山文学』26号

 投稿者:荻野央  投稿日:2014年 4月 6日(日)13時44分39秒 h219-110-144-084.catv02.itscom.jp
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  若い頃に自分の恋人を奪った男、金江草太が主人公、良助の前に50年ぶりに姿を現し、これを見てくれと一冊の本を出した。分厚い「蓄音器の歴史」という本。草太は奪った女とは別れたという。ふうさんを覚えているかという草太の問いかけから始まるこの小説では「戦後」が語られる。”ふうさん”と呼ばれる「女になった男」を通して、ひとつの小さな逆転の物語りなのだ。または倒錯の身の処しの物語と言ってもいい。

戦時中、学徒動員で良助は或る工場で働かされていたが、その工場で一緒に働いていた福太郎という大人を覚えていた。福太郎は「仕上げ工場で働いていた。そこは女たちで占める作業場だったから、ふうさんはたった一人の男だった。当時の男の制服だったカーキ色の国民服を持たない彼は縞の木綿絣の着物に前垂れを締め、小柄な体つきの上に内股で歩くので、女たちより女っぽかった。男名の福太郎より”ふうさん”が似合った」大人だった。
そして終戦。良助は役人になり、或る夜に小さな居酒屋で飲んでいると、カウンターの向こうの知らない”女”から芋焼酎を奢らされた。あんた誰だい、俺、知らないなと訊くと、”女”は、忘れたのかい、一緒の工場で働いていたじゃないか、とふふふと笑うのである。それは福本福太郎との再会であった。しかし男がどうしたわけか女になっていたので良助は驚く。そして酷く酔っ払ってしまう。

“(悪酔いした良助が道端で吐いている。ふうさんが介抱している場面)
「あ、あんた、ふうさんか」
「やっと思い出してくれたんか」
「ほんまに、五年しかたっとらんのか」
「ほうや」
「たったの五年で男が女になれるんか」
(中略)
着物の両袖を胸元にかき合しながら見上げた。二人が暗い路地の奥の棟割長屋で向かい合ったとき、良助ははっきりと思い出した。男だった時のふうさんを。”

そしていま良助と「憎き」草太は喜寿を前に死んでしまった、最後は老人ホームにいたふうさんの息子の家に向かっている。息子は父親と再会したとき、髪結いとして生活をし、また婚礼の場所などで重宝がられ、着付け、髪結い、三味線をつま弾き、望まれれば踊りを披露して生きてきたということを知った。また女装していることも。
息子の妻の前で二人は座り、草太はふうさんの遺品に蓄音器があるはず、あれば見せてほしいと懇願する。しかしふうさんの息子の家にはそれは無かった。それでふたりは老人ホームに行くのだが、その途中ふたりは女になった理由について話し合うのだが、そのとき戦後がゆっくりと俎上に登ってきたのだ。
玉音放送の流れる声の主とその内容が分からないことに苛立つ二人がようやく戦争の終わりが分かったとき、勝利に次ぐ勝利というデマ報道に踊らされて旋盤に取り組まされていたことに腹を立て日本の負けを思い知らされ、米軍の本土占領、男は殺され女は辱めを受けるなどの考えが渦を巻いて良助は切腹しようと考えるのだが、日本人の壮大な死の騒ぎのなかで、福太郎はふうさんに変貌していたのだ。腹も切らずに生きている自分たちに比べて、女になったふうさんの覚悟の中身を二人は推し量っている。その意味はいったい何なのか。

“戦争のさなか、男のふうさんは職場の男に小突かれ女に哂われながらも雑炊弁当をすすってお国のために働いた。負け戦がふうさんの何かを変えたのだ。男の見切りをつける何か、熱い意地のような何か。”

“あの狂気の夏。(中略)
「あの頃は俺たちだって、死ぬことはなんかへっちゃらだったろ。ふうさんは腹を切る代わりに女になったんだ」
「かもしれんな。天下がひっくり返ったんだからな」
草太がぼそりと言う。”

読者は、ここに逆転ないしは倒錯の「意志」があることに気づく。戦前は愛国少年だった井上光晴が左翼に転ずるようなその転じぶりは、ふうさんの女装にもあったのだ。その転じぶりは福太郎自身の戦後の生き方を体で示すものだったろう。肉体的「転向」は旧には戻すことは容易ではないことだろうから、身振りの決意はとても強いものなのだろうと思われる。たとえ実の息子から、「髪結うて女ものの浴衣を着とった」父をお父さんと呼べやしないと呆れられて蔑まれても。福太郎はふうさんの姿勢を崩さなかった。つまり彼には彼の強く熱い意志があったのだ。
ところで草太は蓄音機に拘っている。持参した「蓄音器の歴史」という本に草太は何台か著者に献じている。彼はふうさんの遺品のなかに蓄音器があることを覚えており、どうしてもその機械に会いたいというわけである。
ふうさんの蓄音機は老人ホームの彼の居室に残されていた。訪問を受けた園長代理の男はありますと答え、なるかどうかは分からないと言うと草太は、それはどうでもいいことだと答えた。押し入れから取り出された機械を見て草太は冷然としている。つまり「掘り出し物」「逸品」の類の、本に掲載されていないものではないことが分かると草太は結構です、と言う。儲けにならないというわけである。しかし良助はそうはいかない。良助はその蓄音器に載せられているレコードの音楽をどうしても聴きたくなっていた。ふうさんはどんな曲を聴いていたのか。
ハンドルを回してみたが手ごたえがない。ゼンマイが切れている、と草太が言い、同室だった少し痴呆症になりかけのおばあさんがいびきをかき始めている。諦めようと腰を浮かした良助の耳にふうさんの声が聞こえた。「ゼンマイを巻きんしゃあ」。全力でハンドルをぐるぐる回す。すると音楽が流れ出した。戦前の流行歌「野崎小唄」である。蓄音機はこの小唄の途中で力を失い何年も止まったままだった。小唄に合わせてこの居室でふうさんは女装して踊っていたのではないかと良助は空想する。レコードの鳴りやむまでふうさんは踊っていたことを改めて思い、これは俺にくれというところで小説は終わる。

終戦の玉音放送の日から、蓄音機が力を失い、野崎小唄が止り、踊るふうさんの姿が、良助の脳裏に貼りつけられるまでの長い時間は、この老人ホームの一室でうずくまったままなのだった。つまりふうさんのなかで「止まっていないあの日からの時間」に満たされていたということになるのか。
戦後をめぐる膨大な小説と批評の群れの一隅に置かれてしかるべき、まだ掘り返されていない人々の記憶が無形有形を問わずして出番を待っている。語り継がれようが継がれまいが、時間の風土として日本人に含まれているはずなのである。古い人に新しい人に。
この小説は、その意味で、見事に発掘されたひとつ。逆転、倒錯の道もまた一つの戦後の時間の処理として読まれる小説である。
さて、戦争体験は体験から経験へと昇華しない限り無意味なものになることを肝に銘じておかねばならない。ふうさんは無意味であるどころか女になることでその警告に応じていると言える。
優れた小説を読ませてもらった。
 
 
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