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“Moon” 間島康子 /『駅』97号

 投稿者:荻野央  投稿日:2014年 1月24日(金)17時26分53秒 138.net220148244.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  わたし(筆者)の娘が一歳の頃に夜道を二人で歩いていると、夜空に引っかかったような白い満月があるのを見て彼女は「怖いなあ」と言ったので、どうしてそんな風に思うの、と尋ねると「落ちてきそうだから」と答えたことがあった。星々はコンペウトウで、満月はビスケットではないかと思ったりもしたが、子供の発想は大人の安易な予測を拒むときもあるなと思ったものだ。

 “幼児にも後ろ姿がある/柔らかい肉のうちがわに/どこか遠くからひそませてきた/こころのかたち/言えばそのようなものを/見せるともなく見せることがある”

慈しんでいる幼児がくるりと背面を見せるとき、なにかハッとさせられる。小さな背面は我が手を、さりげなく押し戻すかのような印象を与えるからなのか、または、自分の世界を無意識に強調しているように見えるからか。子供は大人が失なって久しい”原始の知覚”でその小さな世界のただなかに生きているからだろうか。
「遠くからひそませてきたこころのかたち」は、無垢なるその子の存在の「かたち」の謂いだろうし、わたし(筆者)の娘の発言「落ちてくる怖いお月さま」もそうした喩えの証明のひとつなのだろう。我が娘も作品のなかの「幼児」も、我々から見てはるか遠いところにまで行ってしまった、あの動植物が混在していた生命の場所から、純粋な知覚を携えて来ている。ハッとするはずだ。

 “満月の夜/窓辺に立った児は/静かな様子で/空を指す/ ムー/と言う/ Moon/傍らの母親は/ Moon/と教える/ 月”

幼い頭のなかで丸いムーンがムーという似た音声で結び付けられるとは、なんという神秘であることか。月はLuna、狼男も吠える常軌逸脱(lunatic)とを備えていても、幼児はおかまいなくムーと言う。神秘の質の異なる素敵な発音だ。母親は驚きよりも、いかにも子供の発音にうっとりしていることだろう。幼児は母の発音訂正に気をまぎれることはない。ムーのままなのである。

 “あどけない児の/声は夜に吸い込まれ/ぼんやりと顔は硝子に映っている/その向こうにあるものは/さらに遠く高く

 後ろ姿は/そこにある/が/現とのあわいに在る言葉のように/つかめない陰翳をみせている”

作者はその言葉が、無垢なる原始のところから携えて来た性質を失なわれていくサインを見ているのかもしれない。それは幼児自身が自らを失うことと同じことなのである。つまり大人へ。そのように作品を読んでみた。
可愛らしい詩でありながら、作者の、直観で掴む力の強さを感じる。穏やかで、静かな文体の効果により、いたいけな子供の自然の様を見せつけられる。その瞬間は何にも代えがたい美しい一刻であろうと想像されるし、読者も楽しい。なぜといって、大人の読者はもう大人になってしまっていて、古くから存在していた我が体内の美質を思い返すことが、ほとんど不可能に近いからである。羨ましいのだ、きっと。

 
 

今日の歌

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2014年 1月 4日(土)09時13分59秒 p1081-ipbf2504sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  えりも文芸12号から

蛯名 渚

海霧かぶり ひとりぼっちの我が家かな
行く春や 居残りの影 動かれず
夏の雲 飛ばして走る運動会


詩  映像   清水俊司

まだ朝日が昇らない朝に
私に向かって歩んでくる者がある
ああ、一人の私が 訪れてくる
その姿はコートを羽織っているようで
ゆっくりと街を行くようで
気負いもなく 急ぎもせず
どこか不気味で どこか懐かしく
欠けたものを合わすように
より自己となるために
私が私に向かって歩んでくる

彼はずっと私にあり
私へと 旅立ってきた
長い時間をかけて
兄弟のように 懐かしく
再会をするのだ 或いは
和解をするのだ
 

今日の歌

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年12月26日(木)18時13分19秒 p1081-ipbf2504sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  詩誌「極光」から

三陸の朝    中筋 智絵

海はゼリーに凝り もう川へ流れ込むことはない
青々と漲る海水を抜けて するり するりと
張り切った雌鮭たちの肢体が
川から町へ 泳ぎこんでゆく

あの夏は街いっぱいにヒマワリが咲いていた
すべては波に消えていったけれど
ちちははの肌の匂いがたしかに残る川
 

今日の歌

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年12月24日(火)12時00分8秒 p1081-ipbf2504sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  えりも文芸12号から
 石森美恵子
昨夜の雨 梢に残し緑立つ
本音など女にあらず 春の雷
沈黙という絶叫もあり鳥雲に
浜に来ることが漁師の端居かな

天女降臨から
  有森信二
天女が舞い降りるかもしれない 好天
電話でも手紙でもない メールという危うさ
早朝人影なし 胃カメラに行く
秋の気締まり 川べりを無言で歩く
健診からなんとか開放さる 自動ドアの音よろし

短詩は小説を書く者に非常に役に立つ。無駄な言葉をはぶき、分かりやすい文章にすれば、その小説の価値は、ときに飛躍的に上がるのだということを肝に命じたい。前に書いたものを寝かせておき時間が経ってから見直すと、どれほど無駄な記述が多いか気づく。表現を整理し、凝縮し、少ない言葉でいかに大きな効果をあげられるかを学びたいものだ。
 

『放火犯』紹介文・追伸

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年12月16日(月)16時16分53秒 192.net059085006.t-com.ne.jp
返信・引用
  掲載同人誌名を書き落としました。「ざいん」17号です。失礼しました。  

『放火犯』[第一部 殺意の坂道]高岡啓次郎

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年12月16日(月)15時27分38秒 192.net059085006.t-com.ne.jp
返信・引用
  舞台は石狩浜を眺望できる風光明媚な住宅街。だが、古い住宅群に対し、一本道で繋がる丘の上には新しい高級住宅エリアができ、住環境のアンバランスが生じ、数年前から不審火の事件も重なり、不穏な空気が漂い始めている。
古い宅地に住む主人公(野呂希代子)は、一年前息子(孝之)を自殺で喪った。三十半ばの孝之は車の営業マンで成績良好、血気盛ん、その勢いで十も年下の、札幌でチラシ広告などのモデルをしているという、容姿端麗な娘(香里奈)を娶る。孝之は結婚直後から持ち家を買う目的で車のセールスに加えて、母親の心配をよそに夜間のアルバイトを始め、高級住宅エリアにアメリカンハウスを取得した。ところが母親の心配が現実のものとなってしまった。実は香里奈は夜の顔を持ち、昼間、夜の仲間を新居に連れ込んでドンちゃん騒ぎを始めたのである。これに追い打ちをかけるようにリーマンショック、孝之はローンの重圧と香里奈の乱脈に耐えかねて会社の屋上から飛び降りて果てた。
その時香里奈は韓国旅行。知らせを受け急遽帰国も千歳空港で倒れ緊急入院。悔悛したかと思いきや葬儀欠席のための偽装工作。初七日が過ぎると再びアメリカンハウスは真昼の乱痴気会場に。
一周忌を間近にして、絵手紙のサークル仲間で気心の知れた中川典子からアメリカンハウスの表札が“宮永”に変わったことを知らされた希代子は、現場へ急行。そこで希代子が目にしたのは、ベランダに楽しげに出てきた香里奈と、さも親しげに彼女の肩に手をかける背の高い日焼けした男の姿であった。
 孝之の父親たる夫(重勝)に怒りをぶつけるも、慰めにもならないピント外れな言葉ばかりが返ってくる。やがて一周忌を執り行ったが香里奈の姿はなかった。
 希代子も香里奈の振る舞いの背景を知らなくはなかった。彼女は母子家庭で育ち、高校にも進学できず、母親も病気で早世、叔父に引き取られたもののあからさまな差別を受け、家を飛び出し……そんな事情を息子から聞かされていた希代子は、香里奈の振る舞いが「優雅な生活を営む者たちへの、冷え冷えとしたそねみの裏返し」にも思えるのだった。[第二部 憎しみの果て]に続く。
 小説導入部に位置する、物語の今後を予感させる風景描写を引用する。
「眼下に広がる家並みの向こうに、穏やかに寄り添いながら伸びている青い帯は人々の憧れを集めて無数の光を点滅させている。だが、そんな景色も、ひとたび天候が変われば、残酷なほど怜悧に人を突き放してやまない。荒々しい波頭が家並みを覆うように迫ってくる。」
 小生は、この描かれた場所に訪れたことはないが、〈既視感〉と言おうか、過去に見たことのあるような気持ちを抱いた。おそらく文章に“像”の喚起力があるからだろう。物語の価値は筋立ての面白さもあろうが、なんといっても、作家の生み出した虚の時空に引き込まれていく、臨場感こそが命である。“物語の真髄はアクチュアリティにあり”、である。
 

風の森 通算17号

 投稿者:おおくぼ系  投稿日:2013年12月16日(月)13時41分6秒 203-114-195-10.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  この欄の主宰者であったといって過言でははない東谷貞夫氏の追悼号として、『風の森 通算17号』が、発行された。小生は、小説を書いており、発表の場を九州文學によっていたが、東谷氏は小生のつたない創作を取り上げてくれた唯一の恩人であった。追悼号により氏の輪郭の一部をうかがい知ることができたのは、ありがたく、氏が拙作をわざわざ拾い上げてくれた理由が理解できた気になった。東谷氏は、オリジナルで、型にはまらない自由人であったのだと思う。会社を上場まで持っていくことさえ大変であったのであろうし、その傍ら小説を書いていたという。接点は、はからずも小生の九州文學掲載の「銀色のBULLET(銃弾)」及び「深山霧島を見ずや」という、前者はロック音楽と西郷隆盛を混ぜ込んだ作品で、後者は、著名な陶芸家と韓国と使い込みを織り込んだ、はちゃめちゃな作品をよくも評していただいたとの感謝の思いでいっぱいである。氏の評が適格に小生を理解してくれた驚きとともに、今後の創作への自信を与えていただいた。感謝に余りある……ご冥福をお祈りします。北方謙三、勝目梓にかかわらず純文学をめざすが、書くことをあきらめられずに一般小説に転向する文人は多いのではないか。小生は元来文学的素養が欠落しているとの自覚のもとに小説を書いている。ただ、今回の『風の森』で、越田秀男氏が「母たちへの鎮魂歌ー芥川・堀・菊池それぞれの六宮姫」を、久保隆氏が「『明暗』論ー膨張する社会への抵抗」などの評論で、古典ともいうべき芥川龍之介や夏目漱石などについて縦横無尽に論じているのは、何にもまして面白いし、すごいと感じる。ただ、戦後世代に育った小生は読んでついていくのに精いっぱいで、これこそ精神の弱さであり、つきつめる文章・文学をかけない理由でもあろうと考えた……。改めて東谷氏のご冥福をお祈りします。  

“名もない風” 菱田ゑつ子/『鵠』50号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年10月28日(月)14時46分32秒 132.net220148245.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  主語無くとも会話の成り立つ日本語が、便利なのか時としては伝達不完全なので便利だとは言いがたいのか、いずれにしても困る言葉であるように思える。古来からそうだったとは思えない。しかし、I,ich,jeの無いセンテンスは構文として考えにくいとして、諸外国から日本はまことに不思議な国だと誤解されているのではないかと思ったりする。
さてこの作品に若いサラリーマン二人が登場する。二人の間に交わされる、主語のない会話に加えて、「だいたい」とか「感じとして」とか「たぶん~ナニナニだろう」のような、訳が分かってわけがよく通っているのかどうか分からない会話が語られる。菱田氏は上手く書いている。若者A、Bとしよう。

“「あの人/仕事、できないんだよね/・・・・・・/結果でないし/周りの評価、ゼンゼン低いんだけど/いつも平気そうだし/変わらないし/いっしょうけんめい/っていうか/なんか伝わってくるんだよ/好きなんだよなぁ、俺/・・・・・・”

若者Aが語るこの言葉に何があるか。仕事の成果を高く評されないけれども、マイペースでいる先輩に対して同情しているがリスペクトは見られない。先輩の一生懸命な仕事に対する取組みがAに伝わってきているのか、きていないのかあまり判然としない。「っていうか」で下した判断からたちまち視線を外して、「なんか」と確証性の無さでその判断を回避して、「伝わってくる」という没主観性に逃げているようだ。だから噂なんだ、と言われるのかもしれないが、無責任な逃避の言語の放出に、身勝手に「好きなんだよな」とつぶやくAの非合理な直截性はなんとしたものだろう。相手を婚約者と置き換えれば、横っ面を張り飛ばされるだろう。
そして受けるB。

“「たしかに いいですよねぇ/分かりますよ/じつは 僕もそうなんですよ/ヘンなんですけど/感じるんです/っていうか/嫌いじゃないんです/なんなんですかねえ/・・・・・・」/「たぶん/ああいうひとが/信頼できるんだろうね。」”

この受け答えも似たかよったかで、自分の言いたいことが確定的と不確定的のあいだをうろついている感じがよく出ている。人はこのような会話を人間の会話と言うよりは、封じられた動物園の獣たちの声のレベルとして見なすであろう。と、覚えるほどに作者の敏感な現代性に釣り込まれてしまう。作者は巧みに「曖昧で意味不明さ」をあばきだし、A君とB君へ、と呼びかけはせずに、名前の無い風、と二人の会話を定める。

“名もない風が/あるかなきかに/耳元を撫でていく/京都駅南口/改札あたり”

海の風、冬の風、涙の香りのする風、最愛を含める風…無限に付けられる風は吹いている。どこでも。しかし、AとBのあいだに吹いているこの風には名前が無い。つまり呼吸するように会話していて、窒息寸前にならぬように、それぞれが話すその内容の交換に無関心なのである。したがってこのまま名前を付けられないで、AとBは笑いながら古都の町に消えていく。しかしこのままでは大手町、丸の内でも変わらないのでは、と心配してしまう。何事かに気がつかないまま。
今の時代。何を語るべきなのか。たくさんあるようで実はよくは見えていない。犯罪にいたるとハッと気がつくことなのだろうか。それは怖い。名前の無い風が吹き荒れないうちに、文学は…アクチュアルな意識(感触)は持っていたい、とこの詩を読み、つくづく思ったのだ。



 

“こともなげな夏” 水城 裕/『鵠』50号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年10月27日(日)18時00分46秒 132.net220148245.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  楽しそうな夏の、海辺の光景の様子から始まる。

“バニラシェーキを/吸い上げた長いストローを/積乱雲めがけ吹き飛ばし彼と/波うちぎわに引っかかったそれを/つまみあげて/唇を尖らせる彼女の/去年と相似形のような休暇”

男と女の「また今年の」夏を楽しむ様子が見えるが、どちらか分からないが、ひとつひとつの出来事や自分たちの行為に「嬉しさと物憂さ」が、「曖昧な快感」と「けだるい拒否感」も同時に含まれていることを知っているようだ。二人の楽しむ快活な夏の時間には、”すでに”過去と言う相似形の拡縮の揺らぎに行方不明になりそうな危機があり、ふたりはそれぞれ、いまいる夏の海岸を拒みたい思いとか、鬱とおしい感じを持っているので、ますます行方不明になりそうな予感を手助けしているようなのである。
砕ける波打ちぎわ、冷たい海水、笑う白いドレスの女と、駆け抜ける二人の子供たちのはしゃぎ声。そのような快楽に薄皮を感じてしまう時。
子供の登場。恋人から若い家族へと転変しながら詩は進む。

“ヘリコプターの音が近づいてくる/空を見上げる/機体は見えない/一瞬真白になった視界が揺れて/水平線が傾く”

ぼんやりとした危機感を思い浮かべる男と女と楽しかるべき反復の夏の海。いつか夏の海は薄い膜に被われていたことに気がつかないでいた二人。

“サンドレスの右肩が外れる/ねえ、今日なんかの日だった/少し離れてしまった彼に呼びかける/八月十五日だけど、別に……/そろそろ帰ろう/答えは曇りかけた空にさらわれていく”

地獄に終止符を打った戦争の遮断が刻まれているその一日はその他多数に紛れてしまっている。三百六十五の日日は等価等質に、二人と子供の「けだるい」幸福の形成を続けるのだ。
理不尽のままに、無残なる戦死者は「総数」として、無限の波打ちぎわの「総数」と相似形であるにすぎない、と男が言っているように読める。これは現在における危うい「無残」の複写物のなれの果てだ。なぜなら「さらわれていく」と虚しい感じに胸をつかまれているから。

“ドレスを直しながら/サンダルをひっかけると/躓きそうになりながら/水色のシャツが翻る背中を/追いかける”

だから「けだるい」幸福は、拒否したくなる鬱とおしさをはらんでいるということになるのか。戦争の終わった日のことが等価等質に消えていくから、いつもの夏の海の日に戻っていくと言いたいのか。
なるほど”事も無げ”に何事もなかったと振る舞って家族は、来年もまた反復の夏のモヤモヤに包まれることだろう。"事も無げに"夏の特別な一日が平凡になっていく毎年。
さてこの詩から受けるものは? わたしは毎日のことを考えた。毎日は毎年を工夫はしない、毎年を複写しかねないだけだ。
楽しい毎日、恐ろしい毎日、悲しい毎日、苦しい毎日。殺し合いを重ねて殺し合いを眺める毎日、破滅を体験して破滅を忘れてときどき思い出している毎日。そして翌年。同じだ、とつぶやいて海水に浸り冷たさを思う来年の一日。そのなかの「わたし」。
そうかと思った。この作品の中の会話は八月十五日と決まっているわけではないのだ。近似値の終戦の日に、二人の会話が行われているのかもしれない。
表わし得ない思考の感触だけが残される作品である。わたしはそのように覚えたけれども、他の読者の感想が聞きたいところだ。
 

“ほんとの空” 間島康子/『駅』96号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年10月27日(日)08時53分57秒 132.net220148245.t-com.ne.jp
返信・引用
  “アキアカネに導かれて/薬師岳の天辺に着くと/一本の標がたっている

 ほんとの空はこの上です

安多多羅山は ここから一時間半/向うの緑の山のその向うに三角の頂をのぞかせている”

わたしが学生の頃、三日に一度は渋谷のジャズ喫茶(なんと懐かしいレトロな言葉か)に潜り込んで、暗い空間で苦いコーヒーを啜って何か納得してしまった頭を外に出すと、目に痛いくらいの白い壁に「ここがロドスだ、ここで飛べ」と大きく青いペンキで塗られた文字があるのにびっくりした。宇田川町だっだろうか。暫くその文字を見て、またまた納得した感じを持って坂を降りて行った。(何を納得したものだか)
ここがロドスだって? 飛べったって、ジャンプしてみても、着地するのはどうせ同じここだろ、と鬱々と考え込みながら私鉄に乗る学生であった。
あとで調べてみると古代ギリシアの寓話で、ロドス島で大跳躍をしたとほらを吹く男に、ではここで飛んで見せたまえと、ほら話を諌めるいう内容。
ほらの良しあしはどうでもいいが、唐突に都心に現われるこの落書きの大書に、ぎくりとさせられたことが、どうでもよくないことなのだった。

「ほんとの空はこの上です」。やや驚いて登山者は見上げる。透きとおって一体どこまで空の青みは沈んでいくのだろう、と思わせるほどの天高い空。「ほんと」と書いた人の気持ちが転写されたかのように登山者はその言葉に一瞬ひるんで、次の瞬間自分のなかに腑に落ちていく自分を感じる。「ほんと」の真意は感じなくてはならない。ロドスなんだから飛べ、と命令法に従うよりはこの標の言葉は優しく諭してくれるから。

“地続き/いや/空は/まるくつながっているから/この上の空は/智恵子の空/百二十年前の空ではないが

小さな町で/豊かに育った智恵子の/ほんとの豊穣が/青く澄んでいる

胸深く/その青を吸い込むと/一途さを秘めた少女の/眼の光りが/彼方から/射してくる”

「ほんと」は地表の距離感を喪失せしめ、一切れの布のような空の青みの遥さと言うものが、たとえば一人の少女に思われたように、登山者は思ってくれるといい。よければ「豊穣な」心の拡大がのぞましいけれども、それが無理ならせめて「広大さ」を再発見するだけでもいいかもしれない。純粋な精神の眼差しは、こちらへ差し込むようにうながすのである。
この詩を読むと、地上に呪縛されている人のいだいている存在感覚の、秘めているもう一つの可能性と言うものを信じたくなる。それにつけても「ほんとの空」とはいい言葉だ。
 

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