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“人生への おくり物” 一戸れい /『舟』150号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 9月23日(月)07時40分3秒 79.net119083150.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  老境の詩精神は、詩人、天野忠のように自分の過去を眼前の今を、振り返ったり見つめなおすときに無垢なる少年のような「眼差し」の在り様に見られる。いつまでたっても「それ」はそのままではいられない、とその精神は自身を揺さぶる。一戸氏も同じように揺さぶられている。そして、詩を書いている者にとり、これは最大の希望であり目標なのだと思う。

“ここのリカバリーセンターに/入所して十年になる/わたしの一生もここで終わるのかと/思うと 淋しくなる”

詩人の過去の作品からみると、車椅子生活を余儀なくされながらも、いつか立ち上がり散歩へ行こうと言う気持ちが強くあり、断念してはいないことが分かる。遺憾ながら限定された場所のなかに詩の在りかを見つめ、声穏やかに、歌う人である。だからこの4行は、彼女が己の詩的源泉、詩的端緒のことを書いているだけのことで、高らかな声の発声練習の風景であることを読者は後で知ることになる。つまり、

“しかし百人近い人たちと/朝 昼 夜を過ごせることを考えると/幸わせな人生と言わねばなるまい
今八十四才になって考える/人生とは 何だろう/そこで わたしは この世の/人生になにをおくり物しよう”

この世の人生という作者独特の重ねて強調する方法に、作品の主題の在りかを空想するのが楽しみなのだが、さて、この連で氏は冒頭の四行をあっさりと発条にして前に向き直る。詩精神の発動であり作者の強い気持ちが知られるところだ。

“断念とはなにも関係のない拒絶がある、ということがわかるひとは少ない。ここでは、未来とか、よりよい存在とか、地位と言う言葉はなにを意味しているのだろう? 心の向上とは、なにを意味しているのだろう? この世のあらゆる<もっとあとで>をぼくが執拗に拒絶するのは、同時に、ぼくのいまの豊かな可能性を断念すまいということを物語っている”(「結婚」、A・カミュ)

若き日のカミュは、今在るギリギリの自分を”現存している”と叫び、その在り方は自分を打ち据えこれ以上先を進めないと言うのだが、まだ二十代の若さでこの発言と思考が、あたかも熟成されたような衣を被って宣言されるのは驚きだ。でも、二十代であっても八十代であっても本質は変わらない。この世に対して、いまの自分に対して諦念に添えられた「早すぎる断定」は拒まなければならないと詩精神が言う。「豊かな可能性」は死ぬまで存在しており、詩精神の、若くても老いても「脅迫する」性質は変わらないのだ。

“八十二才より詩を かき始める/人生とは何だろう
人生へのおくり物とは/生き続けて いくことだと思う”

一戸氏はひとつの宣言を書き、人生に結論を与えることを拒み、それを与えられた課題のような意識を持っている。贈る人が贈られる人。つまり、神から与えられたのではないおくり物は、自分で投げかけたプレゼントとしての問いであって、それは叱咤であり、或る意味厳しく、或る意味仲間のようなおくり物なのである。
老境のさなかにあっても詩の精神が瑞々しく勝ち誇っている場面は、詩人にとっても読者にとっても幸福な場面ではないかと思うのだ。

 
 

“道端にさいていた名も知らぬ花” 一戸れい /『舟』152号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 9月21日(土)20時42分41秒 79.net119083150.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  「その」風景を語る人は介護施設を利用する人である。車椅子から見ても不自由に歩いて見ても「その」風景はまっすぐにその人に向かっている。健常者とか若者とか、元気満々の人間と異なる角度を持つ詩人の見ている風景には、彼らにはなかなか見えにくい美の価値があるようなのだ。石、空、清流の音、鳥の声、いろいろ。そして路傍の花が目に飛び込む。

“施設利用者のひとりが/散歩に介護さんと/一緒に出た帰り道/道端に咲いていた名も知らぬ花が目についたという/おみやげにとって頂戴といったら/さそくとってくれたという
たんぽぽのような/秋なのに ほそいくきを持った花/水の入った花びんに/さっそく入れておいた”

 作品として意図的に主体の居所が誤魔化されている。それは素敵な誤魔化しだ。語る人は、或る利用者と介護人の様子から、道端に咲いている花の魅力に大きく惹かれているのが分かる。でもその花を摘んでほしいと言うのは、その利用者と語る人との二重のかたちの「人」なのだ。語る人はたぶん動けない状態に在るのか、当日に不具合があり外出がかなわなかったのかは分からないが、しかし語る人の強い気持ちが、作品において二重にさせているのだろう。いずれにしても、嬉しい花を手にして供える気持ちが柔らかく伝わってくるのは、「細い」茎と表現して花のたおやかさが表現され、また「水の入った」と言い添えられることにより、その花を支える花びんの重みが読者にくっきりと見えてくるからなのである。

“その時は 花びらが開いていたのに/食事が終るころになると しぼんでしまった/しかし次の朝行ってみると/ぱっと開いて わたしを待っていた”

語る人は花弁の動きに敏感であり、高名な花であろうが野草の花であろうが、一律に等しく向き合っていて、夕べに萎れて閉じた花に或る感情が湧き上がり閉じてしまいそうになる気持ちが、元気よくまるで音をたてるかのように「ぱっと」と目に飛び込むときの歓喜に浮き上がる。その心の模様が簡潔な文体に巧みに現われて、しかも美的である。自分の感情にとても素直に、かつ抑制の効いた作品だと思われた。
 

『岩壁』おおくぼ系(「九州文学」第23号)

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 9月11日(水)16時56分7秒 246.net059085012.t-com.ne.jp
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  東京の大学を卒業した〈シンジ君〉は、火の山を戴く故郷で親父が経営する採石場に勤めるべく、帰郷早々から現場作業に加わった。現場を仕切るのはなんと発破技士の資格を持つ男勝りの姉。物語の主人公は彼女、と思いきや、さにあらず。
数日後、ユンボ(油圧ショベル)を操縦するシンジ君らに、見知らぬ小柄な男が近づいてきた。「チョッと乗せて」「嬉しいな」ヘルメットを被らせると「チョッだけ教えて」──こんな接近法でシンジ君を丸めこんだ男が、主人公、新設の眼科クリニック院長〈すうちん〉だ。
鮨屋からキャバクラヘ、すうちんゾッコンのハルカちゃん。バツイチなんてなんのその。仕事の話もしっかりと。儲けの最大は白内障手術。目標は納税額県内トップ、社会貢献こそ、が信条で、約1年のお見合い期間を設け洗脳、シンジ君は秘書(兼看護見習い・遊び相手・保険請求事務・学会出席代行・アッシーetc.)になってしまった。すうちんは猪突猛進型のお山の大将。自分の趣味を平気でスタッフに押し付けるから定着率は極めて悪いものの、仕事は休憩時間もとらず爆走、その分嵩んだストレスはハルカちゃんへ。ご懐妊~。双子と判明。すうちんの子は前妻の双子と合わせて都合4人に。
お手伝いさんが必要になって、面接にシンジ君も立ち会う。その中にハツラツとした若さあふれる娘〈直美さん〉が。面接合格、シンジ君の求婚相手にも合格。
やがてクリニックは県下納税額第一位に、よせばいいのにビジネスホテル計画も樹立、なんてはしゃぐもんだから診療報酬のレセプト審査機関からにらまれてしまった。特別医療監視の対象に。過去5年間の過剰請求分を返納せよ、その額1億円以上! クリニックは休業、すうちんは忽然と消えた。
場面は砕石現場。「姉が、おーい、と岩壁の上から手をあげる」。すうちんの件はすべて夢? ではなかった。その証拠にシンジ君、直美さんとの結婚目前。
姉「すうちん、私を口説こうとしたことあるんだよ」、シンジ「……」、姉「崩せるものならダイナマイトもってこいと言ってやった」、「バカでチンケだけど私をシンデレラにしてくれそうな男だった」、シンジ「すうちんは今マレーシアだよ。子供4人ひきつれて、ハルカさんはついていかなかったみたい。イスラムに改宗してハーレムって魂胆かも」「さあ仕事!」と姉が立ち上がる──姉の小さくなっていく後姿、あれ?すうちん!?(この二人の会話はおおくぼさんの作品を下敷きに越田が勝手に短くまとめたもの)
すうちんは白馬の騎士?。“自然”が引き起こす荒波は多くの命を奪い傷は癒えない。一方の“人工”でできた人間社会の荒波も人の生き死にを左右する。そんな荒波をものともせず、常にポジティブなすうちんは、英雄というには“もどき”っぽいが、英雄の変種ぐらいではありうる。
 

佐伯晋『三つの髑髏の物語』

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 8月 6日(火)11時31分38秒 171.net059085012.t-com.ne.jp
返信・引用
  三つの髑髏の物語。語り部の〈私〉も髑髏。ただ彼らと違うのは、私の頭蓋は広大なドーム状の宇宙で、モスクのごとくでもある。濃密なエーテルで満たされており、死者はこの中に溶け込んで行く。中にはこの世に心を残すものもおり、彼らは融けずに夏の日の陽炎のようにゆらいでいる。私とて融け入る運命にあるが、あるこだわりから、もう少し留まりたい。その私のところへ三つの髑髏が時を違えて訪ねてきたのである。
一つはガダルカナル島で戦死した少年兵。天皇陛下から拝領した双眼鏡で海岸を偵察中、白い蝶が。懐かしさから追っていると、蝶が双眼鏡の視界から外れた途端、橙色の閃光が……。2011年8月、彼の頭蓋は、島のサッカー好きの少年に、朽ちた椰子の実と間違えられ、蹴られた。その拍子に彼は66年ぶりに目覚めた。彼の双眼鏡がソロモン諸島戦争博物館に展示されていることがわかり、再び眠りにつけそうだ。
二つ目は、二歳で小児結核で死亡した〈フミヤ〉。父は錯乱し脳病院へ、一年もたたないうちに結核に罹り死亡。父は詩を遺し、フミヤはその中で、秘密基地の匂いのするニ篇を記憶している。ひとつはアストラカン、ひとつは砂漠、サハラ砂漠に違いない。フミヤはこの二つの秘密基地を訪ねた後、エーテルの海に向かおうと思っているが、その前に父が心配なので探したい。私は陽炎の揺らぎが目印であると教える。
三つ目は、下野国の百姓、弥二郎という若者。日照りで凶作続きにかかわらず過酷な年貢、度々の嘆願書も聞き入れられず、領内の百姓が決起、打ちこわしをはじめた、その数4万。やがて鎮圧され首謀者の三名が斬首刑に。弥二郎もそのひとりであった。骸は鬼怒川の河原に埋められたが、父親が掘り返して息子と思われる頭蓋を先祖代々の墓に、残る二体を寺に石碑を建て葬った。実は父は取り違えて別の頭蓋を墓に納めたのであるが、弥二郎は父の篤い想いは伝わったと、父の愛を受けとめている。
三つとも「さかさ仏」だが、かく言う私も一人息子を紀州の浜辺、8月の土用波で喪っている。遺体もあがらなかった。フミヤの父のように脳病院にお世話になり、徴兵は避けられたものの退院したら妻がいなくなっていた。
やがて三つの骸と私は一堂に会する。焚火が始まる、弥二郎は自分の髑髏を探す父の松明の火を思い浮かべる、フミヤの念力でエーテルに砂漠の幻影、フミヤ「雪……」、少年兵「砂漠にも雪が……」、暗順応が遅れた私にも砂漠が見えだす、白いのは砂漠の砂?雪?
同作品は、象嵌された中原中也の詩が作者の紡ぐ虚構の時空にみごとに溶け込んでいる。クライマックスに「砂漠の中に、火が見えた」が繰り返された後、「アトラス山脈から、ごぉーと風がおりてきました……」以降結末までの14行はほとんど詩文であり、特に最後の2行「神の国マラケシュで、砂漠に雪が降ったその夜に、赤い焚き火に送られて、昇ってゆきたくなりました。」は、浄化の心で満たされつつも、やはり哀しくせつない。
佐伯晋の最初の作品集『白い海へ』(鳥影社刊)所収。
 

“光の射す方へ” 赤井晋一 /『あるかいど』50号(終)

 投稿者:荻野  投稿日:2013年 8月 3日(土)13時24分22秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  読み進めていくうちに16年前に発表されたホラー小説『黒い家』(貴志祐介)を思い出していた。保険金目当てに殺人を実行する「普通の主婦」が息子を、亭主を殺すのだがその殺人の様子がなんとも凄い。亭主の肉体の一部を生ごみと一緒に捨てたりする女、首を吊りぶらぶら揺れているのを見ている保険会社の調査員(主人公)を横目でじっとりとみている、のちに殺される亭主が、とにかく人間の形をした人間でないと描かれる。「お前には心が無い」というキャッチフレーズが印象深かった。
人は単純に物体である。死者の破壊とか解体は<わたし>にとって、自在に取扱いできる対象でしか過ぎないとでもいうかのように。そこには神の命法や倫理的な自戒の精神の欠片もなく「金を稼ぐ」目的だけが転がっているにすぎない。「さっき」むかついたことであり、返信の無いメールに対する苛立ちであり…。たいしたことのない動機からでもこのような「解体処理」は行われる。そして気が付けば「誰がしたの?」と驚き「(とりあえず言っておこう)すみません、ひどいことしました」と涼しく言う人たち。この作品もこのような“サイコパス”の物語であり、現代の事件に対してアクチュアルに向かうスタイルを示す小説だ。少なくとも、サイコパスを取り上げたことは素晴らしいし、同人誌の世界では類を見ない。
「あなた」はハサミを使って紙人形を切り刻み、符号として「気に入らない」人間が死んでいくという主線の物語である。
ハサミはどのような形をしているのか、そして紙を切り刻む様子があまり書かれていないから分からないが、一昔前の丑三つ時の藁人形と金づちと釘の絵巻物の様にハサミが登場している。動機が憎悪であるから解体は殺意の代償であるということからみても、「あなた」とハサミの共犯関係は必然的な要請を受けることになる。ただ現実はこのような要請が無い。いまは現実の方が創作の世界を凌駕することが有るので、作家は油断できない。でもこの殺意の代償行為は、理由のいかんを問わず分析の対象たる話題となるだろう。
現代文学の退嬰退行貧困の理由が、この作家にあらわれているアクチュアリティなのだ。
また「あなた」と名指しで呼び物語を進行する者の正体である。ドストエフスキー『悪霊』を進行させる「わたし」が小説全体を俯瞰する立場にあるように、この作品に現われる様々な事件をより作者の思い入れを抜き、乾燥している筆致で語るのは「あなた」と呼ぶ主役の無名ぶりが一段と効果的と思えた。「あなた」と呼ぶ何ものかは何時だって主役の「あなた」と入れ替わるということ。いかも容易に簡単に。
普通とアンチ普通の間にグラデーションが無い「人間」が頻繁に姿を見せている今、現代文学にいよいよ時代的な要請が寄せられているのに「しらんぷり」を決め込むメジャー(文壇)は見捨てていいのかもしれないとさえ思ってしまう。(いささか過激な感想か?)
いずれにしても本作は快心の小説だと思うし。すくなくとも作者の豊かな可能性の胚胎を予見させるものである。その可能性はややもすれば同人誌小説のステロタイプ状況を打ち破るだろう。
 

“別れのときになく” 楠本一功 /『あるかいど』50号(3)

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 8月 2日(金)15時58分58秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
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  長い人生を大過なく送ってきた老夫婦が、妻の義母の介護で、大阪と福岡で別の生活を送ることになると言う筋立てて、同窓会の通知を出席として出したことから少し、寄り添っていた夫婦のあいだに溝が生じる。妻は義母の介護で元気である。しかし妻に来た同窓会通知に出席します、と返信した妻に夫・義武に小さな疑いが少しずつ膨らんでいく。今更ながらマドンナと言われていた古女房がなにか艶めかしく見えてしまう。彼女は何かを期待しているのだろうか。
二人で温泉旅行に行くくだりで、温泉宿の風呂上がりの妻の濡れている髪に、思わず見とれる義武の視線がいい。見慣れた妻が見違えるほど他人の様な印象を彼に与えた。それは嫉妬の現われである。だから妻の足元の黒く蠢くもの、それが蟻であることを知り、義武はおおいかぶさり、蟻をひねりつぶす。「蟻」の登場と義武のふるまいが老いた激情を印象づける場面は、どこか清々しい。この小説の大切な頂点のように思える。
最終場面で、妻が居なくても別段困っていないところ。つまり比翼連理において一羽が欠けても枝の撓みは対して変化がないという皮肉な結論が小気味よかったと思う。
 

“とどかぬ願いと知りながら” 山田泰成 /『あるかいど』50号(2)

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 8月 2日(金)15時43分57秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
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  悪徳の話である。九十五歳の高齢の卯三郎は息子夫婦と同居しているが、いつもの散歩の帰りに事故に会ってしまう。後ろから来た軽自動車に気がついて慌てて転倒してしまい怪我をしたのだ。そこに居合わせた女が救急に連絡して事なきを得る。卯三郎は助けてくれた女の事は詳しくは覚えていないが、感謝の気持ちで一杯で、自分の命を救ってくれた女を、山の遭難事故で亡くした一人娘と思い込む。それは、男の子が欲しくてたまらなかったのに生まれた女の子、澄子を男のように育ててしまった自分の育児の結果が、男勝りの山登りに夢中にさせ遭難死させてしまったと思っている。そして死んだ娘の父への優しさがずうっと卯三郎のなかに有るのだ。
“「わしを助けてくれたのは澄子やと思うてます。つまり、あんたが澄子の生まれ変わりやと思うてます。澄子はわしに親孝行の一つも出来なかった。だから事故に遭った時、わしにもっと生きてほしいと手を差し伸べてくれたんだ。その時、そう思いました。今でもその思いは変わりません。”
女は澄子ではないと言うのだが、卯三郎はそのことが分かっていても娘があたかも女のなかに宿って助けてくれだのだ、という常識の外の思いで言う。
実は女、真紀は厳男という悪徳の化身のような男の女房なのである。もっとたかれ、ふんだくれと喚く夫の声に従って10万、50万と卯三郎から金を貰う。運が向いてきたと喜び酒を呑む夫に、真紀はとうとう良心が疼いたのかもうやらないと宣言する。「あんな純で真っ直ぐな爺さんを、これ以上騙すわけにはいかない」とつっぱね、あげく厳男を絞殺して自殺する真紀。いっぽう、あれからやってこない女の事を待ちわびている卯三郎は「岩壁の母」を歌い、息子夫婦は大丈夫なのかと心配している。

仕組まれた事故で救ってくれた悪徳の女を娘と錯覚して(見立てて)、失った娘を通して「恩返し」をしようとする主人公の「心の純朴さ」、悪徳の流れと女の後悔の気づきと悪徳夫婦の自滅が、奇妙な均衡を立てている。また夫婦の悪のシーンに純真な老人の心が無関係に置かれてあり、こうした小説の構造が小気味よく悪徳をあぶりだしていると思われる。地味だけれども、小説として上手いと言えないだろうか。十分に卯三郎の気持ちは届いていると思われた。女に、娘に。

九十五歳の老人の心のなかの風景はどのようなものなのだろう。誰しもが、思念がもはや薄暮の世界になっている推定するだろう。でも「人間の尊厳」というなかば空虚な言葉が言われても、では現実にどうなっているのかというと、このような小説が空虚に聞こえてしまう「人間の尊厳」というものはあるはずがないと教えてくれる。もっともっと凄い「現在」である。そういう凄さに対して、認知症とか痴呆症と言われるのに対して、人間の本源的な思いやりとか優しさはいたるところにあるのだから。卯三郎が「岩壁の母」を歌い、それは純真な気持ちからの衝動であって、覚めている息子夫婦には分かりにくいものかもしれない。でもわれわれは老人の気持ちがそのようにあるのが、とても嬉しいのである。
作者は老人の世界でいま、何が起こっているかを巧みに描き出す作家である。この分野の文学はまだ確としたジャンルとして成立していないみたいだけれど、その意味でまだまだ「しつこく」追求してほしいと思うし、見合った力を保持されている。継続して深めてもらいたい。
 

“犬” 多紀祥子 /『あるかいど』50号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 8月 1日(木)14時13分49秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用
   或る月夜に、男と女が愛犬の死骸を埋めるシーンから始まるこの小説は、その後男に棄てられた女が、崩壊した愛の代償を求めるようにして、男と住んでいた家を訪ずれ、そこに誰か知らない住人のいることを知り様子をうかがっているという風に展開する。そして女は住んでいる白い部屋着の女が犬を呼ぶのに遭遇するのだ。口笛を吹くと亭主らしき男と犬がやってきて、テラスで彼らが仲睦まじくしているのを見てしまう。
 女は「おいでおいで」とその犬を呼び寄せ、無断で連れ出して可愛がる。寝るときは一緒にベッドで、お風呂は一緒にシャンプーをして綺麗にしてあげる。犬の好むとても美味しいものをどっさり与えよう。それから、こう女は思うのだ。

“かわいい犬は、できることなら両手で首を絞めよう。あいしたものはみんな消えていく。消えていかないうちにこの手のなかに葬ることに。”
(中略)
“毒薬を食べさせようか。毒薬は犬の躯にまわり、口から血を吐きあわをふき、肛門からも血をながしつづけるだろう。
(中略)
犬は埋めようか、それとも黒い川にながそうか。永遠に自分だけのものにしなければ。

 二人と愛犬で培ってきた愛の物語(生活)の崩壊が、今の居住人の愛する犬の愛撫と殺害の空想と言う、分極した感情の惑乱にたとえられていて、とても無残なのである。ちょうどその日は「花まつり」。不幸を回避する短歌を甘茶でしたため、戸に貼り付けるまじないの一日だ。女とその犬は歩いていくが、犬を埋めた河原にはいろいろな花が踏みにじられて散らばっている。その傍を通り過ぎていく。不幸は回避されているのだろうか。
 男を失い犬を失い家を失った女が求めているものは、短冊を心に貼りつけて、かつての家にいる自分と死んだ犬と、いま歩いていることとの合同する幻覚の感情だろうか。
 願いから遠く離れた失ったものとの合同は、どうしても幻覚に違いないのだが女は抑えられない。その気持ちへ、寓話的な語りにつられて読者は誘われる。答えも何もないが応えきれない人間の諦念とか悔恨とか苦痛に似た望みなどの、感情のひしめきあう様が女の描写によく見える。 その「ひしめきあう」ことだけで訴えられると読者はなかなか納得できないで、もう一度この作品の冒頭から読みなおすことになるだろう。
 幻覚の中の犬は祭りの後に無残に散る「かつて綺麗だった花」と同じように、哀願する目の陰影を女に与えた前の犬のように寄り添うところは、優れて興味深く、想像力を掻き立てられた。短いながらも逸品であると思う。

 

吉本隆明、同人誌活動にエール!?──『第二の敗戦期』

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 8月 1日(木)08時42分1秒 231.net059085001.t-com.ne.jp
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   『第二の敗戦期─これからの日本をどうよむか』(吉本隆明、春秋社刊)は同人誌「風の森」のチェアマン、皆川勤さんがインタビュアとして協力した作品。インタビューは08年5月に行われたが、諸処の事情で発行は昨年10月となった。この中で、『言語にとって美とはなにか』の、言語の価値にかかわる最重要概念である〈自己表出〉〈指示表出〉について、両者の相互関係を非常にわかりやすく説いているので、少し紹介する。
吉本さんは、両者を〈樹木〉に喩えて、〈指示表出〉は枝葉・花・果実に相当し、春には花咲き秋には結実し葉を落とす(断続的)。一方の〈自己表出〉は幹や根であり、ジックリと根を張りながら年輪を重ねて行く(連続的)。つまり言葉のコミュニケーション機能は、枝葉(指示表出)にすぎず、「樹木の幹と根は黙してそこにあるだけ」「沈黙こそが言語の本質」「自己表出というのは、そういう幹と根っこのいちばん近いところに置かれている言語表現」だと説く。
 吉本さんが「沈黙こそが言語の本質」と唱え出したのはいつのころからなのかは、皆川さんの論考『吉本隆明〈最後〉の場面』(「風の森」第2次創刊号)を参照されたい。
 凡夫は、吉本さんが「言語美」当初からそういう考えを抱いていた可能性が大いにあると思っている。吉本さんが描いた〈大衆の原像〉には、知的上昇の自然過程に乗らない、〈沈黙〉せる大衆、〈深山桜〉としての大衆がイメージされていたのではなかろうか。
知的上昇の道は自然過程であるから、放っとくべし。いまや一億総知識人! 大衆は雲散霧消した? 親鸞最晩年の和讃「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」──もはや“よしあしの文字をもしらぬひと”などいない?
大衆の原像とは知的上昇を可能ならしめる基盤、母なる座のことであろう。基盤を失った一億総知識人など人間のいない神のごときだ。
 皆川さんによると(前出同文)、吉本さんは言語論の体系を文字以前のところまで拡張すべく構想していた。アジア的段階⇒アフリカ的段階からさらにその奥へ、を言語においても希求していた。
 根所を見失うな、さらに奥につながる通路があるはずだ。その奥から〈今〉を照射せよ。これも晩年の吉本さんの考えというより吉本思想の当初からの想いではなかったか。沖縄返還時の沖縄に対する吉本さんの論考を振り返れば、決して思いすごしではないはずだ。
 『第二の敗戦期』の最後の箇所をちょっと紹介する。
 「(?第二の敗戦期としての今なすべきことは)自分たちで精いっぱい考えて、圧縮するというか、縮小して、気心の知れた友達同士で同人誌を作るみたいな感覚をもち、三人以上いればしっかりした集団ですので、そこでいろいろなことをやってみる…略…といったことがたくさんできていけばいいと思っています。/ほとんど空想のように思われるかもしれませんが、そういうことでしか可能性はないのではないかとぼくは考えています。」──これって同人誌活動へのエール?
 

pegada13

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月29日(月)01時23分50秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  虫たちの宴  祖川悦人
これは思春期に遭遇する少年の性への目覚めや避けがたい惑いを描いたもので、抗しがたい性欲からくる妄想をユニークなタッチで赤裸々に描いている。性夢や自慰を経験する少年は、とりわけ昆虫の集団交尾を目撃して衝撃を受ける。そこに妄想が作用し、いつしか自分もその集団の一部にとりこまれたような錯覚を起こす。ボルヘスを連想させるようなシュールな雰囲気をかすかにあわせ持った作品といえる。とりわけ田んぼの地面に穴を掘って性器を挿入しようとする二人の少年の描写は興味深い。これが誰かの実体験なのか作者のイマジネーションによるものかは不明だが一番面白い場面として読んだ。この奇異な行為は、少年が思いつく他愛もないマスターベーションの方法なのだろうが、これを比喩的、寓意的に表現すれば、地球を犯そうとする試みであり、母なる大地との交合は母子貫通にも通じる変質的な行為でもある。発展させればさらに面白い小説になるかもしれない。私は『海流』という小説の中でエリモで昆布を採る婦人たちが、ヌメヌメとした昆布の粘液や肌触りから性的な妄想に駆られる場面を描いたが、祖川さんの書いた場面もまことに興味深い。
ボルヘスは時空間を自在に操って不思議な短編小説を数多く書いているが、この作品もさらに文体をみがき、ものごとの寓意性を象徴的にあぶり出すことに成功すれば傑作になるかもしれない。
 

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