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九州文学 第七期20号から

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月26日(金)12時20分45秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  送られて久しいが、掌編をひもといてみた。
齧られた団子…中尾賢吉
 終戦になっても帰ってこない息子を思う母親の悲しくも切ない物語。
 八幡様の境内の裏で見つかった婦人の死体は息子を待つ母親だった。その母親の中に入り込んだ作者が、戦地に飛んで撃たれた息子を抱き上げている母親のシーンまでを描いていて、終戦記念日が近づいたいま胸を痛めながら読んだ。ネコイラズはこの当時の自殺によく使用された。待てども待てども帰らぬ息子に会う残された方法はひとつ、自らが肉体を捨てて息子のもとにおもむくことだったのだろう。掌編ながら神の視点で書かれている。これを母親だけの視点で書いたり、里吉という少年の視点からのみ書くのも面白いかもしれない。当然ながら そうなれば母親の想いはすべて里吉の空想か残された遺書や手紙のようなもので書くことになるが、これも物語を作る醍醐味といえるだろう 作家は 自分が扱う素材をどの視点で描いたら最も効果的かを見極めなければならない。それができたら あとは視点をぶれさせずに書ききることだ。神の視点で書く場合は自由に書けるが 昨今はこうした書き方が少なくなった。現代の小説は神を殺したと言われるが 果たしてそれが良いか悪いかは誰にも解らない
 
 

おおくぼ系『アラベスク』

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 7月25日(木)09時32分41秒 108.net059085007.t-com.ne.jp
返信・引用
  主な登場人物は2人、サツマぼっけもん=〈俺〉と、ヒゴもっこす=〈日向〉で、それぞれ東京の大学に入学し、“田園調布”の安アパートで出会い、先輩後輩的関係が結ばれた。卒後、堅実志向の俺は地元の銀行に、夢に生きる日向は外語大で専攻したアラビヤ語の世界へ。そして20年の歳月が。
時は、国内ではバブル崩壊、西の果てでは湾岸戦争。風のうわさでは、家電ディーラー社員としてクウェートに赴任していた日向が人質となり悲劇が?……
ある日その亡霊から突然のTEL。日本に戻り、四国・九州エリアの担当になったとして、火の山を戴き灰の降りしきる街にやってきた。そして二人は酒を酌み交わす。
日向はクウェートでエアコン販売に大成功、ところが普及もピークに達すると現地の販売店がイランへ横流し。イ・イ戦争で疲弊した国民の金払いがいいわけがない。回収が滞ってくる、王族のオーナーに掛け合うも、返事はインシャーアラー、神のみぞ知る。負債を抱えた販売部門は撤退を余儀なくされ、日向も帰国。実はこれが幸いとなり、直後に起きたイラク─クウェート侵攻の難を逃れた。
日向のポジティブ志向は、奇想天外なエジプトでのウナギ加工事業の失敗談も成功話に聞こえるほど。一方俺は日向と対照的に、3年前から鬱々と日々を消化していた。バブルの最盛期、ある土木会社の自称共同経営者的存在の男が、肥満化した会社に愛想を尽かし独立話を持ってくる。バブルがはじけるのを予感していた俺は融資を拒否した。ところがこの話、上司に上がってしまい、理不尽にも成約にさせられ、そしてバブル崩壊。泡のごときひ孫請け土木屋はあえなく消滅、女房は子を残し逃げだし、男は自殺。そして俺もまた離婚した。
二次会はオカマのショーパブ。乾いた人工の花、躍動、泥酔。豚骨ラーメン、溢れる涙、「先輩…」、アラブにきた、ベールをまとった褐色の肌の女。乳房、自殺した男の顔、父を呼ぶ子の声……快楽と恐怖の余韻、後悔へと波立つ。
夢遊病者のごとく欠勤三日目「来週退職願持って出社する」と会社にTEL。林利衛門、パチンコ7万円投入。パチンコ二日目軍資金10万円惨敗、泥酔。パチンコ六日目会社からTEL、ともかく出て来い。アラブの金融ブローカーになるか。闇金に就職? 欠勤から十日目、辞表を携え会社に赴く。結末は読んでのお楽しみ。
軽快なリズムが、オカマショーパブ以降、破調に転じ、場面や主人公の心の変化がモザイクや点描画のように重ねられる。ようするに〈俺〉は日向の刺激を受けて切れちゃったのであるが、内面はそんなに単純ではない。言葉に表すことなどできない心の襞、それを言葉で表すのが、虚構芸術の本懐である。
おおくぼ系「アラベスク─西南の彼方で」=「現代作家代表作選集 第2集」(鼎書房TEL03-3654-1064)
 

“ふと” 木原能子/『駅』95号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 7月23日(火)18時25分58秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  “この/ちいさな庭から/わたくしは/想像する
ある日不意に/影を失ったひとが/内なる感情の重圧に/耐えかねてはいないか”

 広く自由に飛び跳ねていると、その跳躍を止められる瞬間があることを知って人は驚くことだろう。自分で自分を止めるのではない。「止められた」自分に驚くだけで十分なのだ。つまり止まっている・・・何時のときに?・・・「ふと」した時に。これはとても不思議なことではないか。
「ふと」に耳馴れてる言葉は「立ちどまるであって「歩き出す」とはあまり聞いたことがない。「ふと」は「見下げる」を従えないが、たいていは「見上げる」が従うように。
「ふと」は動きのこと、「ふと」は上のこと。静的な「わたくし」に、諸々の表情になった空が降りてくる。これが「わたくし」の「わたくし」を垣間見る瞬間のことを言うらしい。
そして「わたくし」は読者のことでもある。「ふと」は突然でなく、いつでもどこでも「わたくし」と読者を待ち構えている狙撃手が企図することであることを忘れてはいけないと思う。つまりいつでも瑞々しい時空間を共有できるということだ。

 影を失い自己の不在に驚いている者は動転している感情が強烈な熱を体内に散らして自己を追い詰めるほどになってはいまいか、と思う。不在に感情があわてふためいているように見える。
あるいは、

“予告なくおとずれる/とりどりの辛苦に苛まれ/魂の平穏を阻まれてはいないか

なすすべのない/他人の中で/自分を/封じ込めてはいないか”

 辛苦といい封入の悲劇的なものといい、「わたくし」は、読者は、確かに耐えがたい。「ふと」訪れるものは、ほんとうは新たなる確認のようにして、もっともっと希望あふれることであっていいはずだ。
 やはりあわてふためいてそうした本来の確認を忘れているように思われる。
 あるいは「ふと」はそのことを踏まえたうえで、「わたくし」を、読者を問い詰める残酷な瞬間のことを言っているのだろうか。

“わっと叫びたい男がいて、彼の現実は急変していた。と言っても、深夜のせまい厨房のなかのことだ。
壁も、戸棚も、食器も、赤紫色に変色し、一斉に、膨張して、回転しはじめていた”

何もかも忘れて、わっと叫びたい彼をかこんで、厨房の全ては、悪意に満ちて、充血し、腫れ上がって、ぐるぐると回転する。その眩暈のなかで、包丁や鉛管は、くねくねと曲がって光る。
(中略)
今、すぐ、絶対に、ここに、必要なものがある。今、すぐ、全てを一度に新しくする、孤独と革命が”
(『わっ』、粕谷栄市)

 この散文詩における主題を併せてみると、その一瞬の価値を見出すことができる。
「ふと」はここでは「わっ」と叫ぶ衝動に置換されて、天からおりてきたような与えられたままの「ふと」は、この散文詩を通して、今は内発的な自己を革命的な契機として見なす叫びとして見るのだ。これは大切なことに違いない。だから「ふと」は与えられて、内発的に総合されて、ますます完全な一瞬の契機になる。とても大切なもの。
もう魂の平穏を破壊するものは許さないし、他者という冷酷な檻のなかに惨めな自己を見出さない。鳩の鳴く平穏な風景の中の自分。「ふと」思いだすようにして「今、ここに、最大に必要なもの」を感じなければいけない。いな、感じ取るのだ。

"とつぜん/こころに風が吹きとおり/からだの芯を貫いたとしても/だれにも伝えはしない

ただ/すこうし湿った場所で/一茎の草が/危うく揺れるのを見た”

「心に風がとおって行ったこと」「誰にも伝えないこと」。それは「わたくし」と読者の”内的な革命”として受け止めるし、ふだん通り過ぎていく道べりに、蔽う大空に、踏みつける地面の胎動にひそむものを見つめることだ。それは何か? それはもうひとつの自分の事ではないのか?
「伝えられた」ではなくて「伝えた」と主体性を明らかにする詩人の表現にあらためて注目したい。たとえ路傍の草のひとつであっても、見過ごしていた退屈なその草の揺れると言う現実をふたたび発見できたのは、再構成できたのは、その新たな意識によるものであることが、なにより嬉しいことだ、と思われた。

作者の、現実への目くばり、確かな詩人の視線は絶妙にして細やかである。わたしもそのような 似た契機を感じるときがあるのだが、上手く昇華できないでいる。悔しいことだけれども。
 

“つゆのように” 間島康子/『鵠』49号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 7月20日(土)21時11分53秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
   ちょっと難解な詩。「つゆ」は梅雨のことではなくて「露」のことである。広い葉に溜まる水滴がひとつ、何かの拍子で転がることを思い浮かべてみた。

“憶えている/覚えている/が重ねられ/去年の春を/ありありと/思い起こすのは
宙に浮くような/梨棚の白い花が/あたかも心とは/このようなもの/そう思われた日/があったからで“

 低く拵えられた梨の実の連なる光景はとても微笑ましいものだ。重くたわわに実る果実たちは、当初はやや薄い緑色をしている。ひとつひとつ重たげな「無言」のうちに栽培者の手によって磨かれている。磨かれて大切に袋にしまわれる梨の実は梨の色に満たない、まだ緑色のそれは変色への将来を求めているようにも空想される。いつか果実たちは人の顔のようになり、無言裡に揺れるだろう。果実の顔は言葉を持たず魂の気配すらないのが鑑賞者の感想であるけれど、栽培者にとっては違う。少しでも劣化の印象を得るのではないかと心配で仕方がないことだ。
 外部から愛でる者と、育てて慈しむ者との相違であり、あたかも心と心との通行路が幾筋もあるようにして見える。

 でも去年の春…。いま、近過去の春を回想することは、どうなるのか。

“それからに続く/不意打ちの時が/半透明に揺れて/からだのなかを/流れたからで

目の前で今/百花繚乱の/色めく辺りに/さんざめく/いずれが/記憶の頁に/挿まれるのか

露のように/おもわれる“

 梨棚の実の揺らぎは、それが醸し出す人の顔と隠された心の風景は、いつまでも永遠に反復されるのがいいに決まっている。平和と言っても不変と言っても、日常的なと言ってもかまわない。たとえ「不意打ち」の衝突が起こってもそれらは変わってはいけないように思う。保守的であっても傷つかないことは最善だ。
 果実の連なりは衝突に耐えてほしい、と誰もが希望する。様々な百の花々の言説が喚いても、そのままでいることを希望している。不変に対する衝突はいつでも希望を孕むものだ。希望と言う可能態を約束している。
露が上の蓮から下の蓮へ転がるおちる瞬間。鶴岡八幡宮の蓮池でその瞬間に見た作者の感慨が彩りを添えると思う。葉から葉へ水滴が伝い落ちていくのを見て…。

“一つの水滴、露の玉がうまれる。全きにまるく透明だ。それはまるで無垢にこぼれ、ころがる。葉先にやってくる。そして、いともたやすく次の葉に、弾んで転がり移る。葉先にやってくる。また下の葉にやすやすと乗り移る。生きもののように躍るように、繰り返す”(随筆『つゆ』、「駅」95号)

 そしてまたその水滴は別の葉に移り行き、太古ハスを「種の生命」となぞらえて「露のような生命」を連想している作者は、脛さと果敢なさに魅入られている。そうまでして水滴は、露は生命的な動きをして見せながら深い幻覚を、眺めている者に散じるのである。
 したたかな命の胎動は衝突と揺らぎに耐えて日常の切断に生き抜く。どのような繚乱にも彼らは幻惑されない。浅はかな同情や理解よりもはるかに、梨の群れを見守る人々の、ひっそりとした希望が、したたかに偲ばれているから。
 そんな空想を得た。楽しくもあり苦しいけれども、詩的な感想にいたるまで、しばらくのあいだ、この作品を何回か繰り返し読んでみたいと思う。
 

“白い雲を抱く伯母” 間島康子/『駅』95号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 7月20日(土)09時00分0秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用
   海辺に住む叔母に語りかける「私」は伯母の体のなかに「白い雲」を見ている。長い間会っていないので、そのぶん雲を体内に宿している伯母の印象がはっきりとしている。伯母が抱えている雲は、実在するはずがないのにとても鮮やかに見えてしまう、昔も今も。「私」が少女の頃に伯母はこんなことを言った。

”わたしは末の息子が一番かわいい/そしてその息子と今も暮らしているのですが/あなたはこんなことを言われました/わたしはこの児を無いものにしようとしたのよ”

 今なおまだ理由は分からないのだが、伯母は息子のことを一番身近に感じてそして愛して、だから一緒に住んでいたのだ、きっと、と「私」は思う。

”それでも生まれて育ち/わたしに一等近い子かも知れない”

 堕胎しようとしてできなかった命が、幼い者として逆説としていま傍らにいて、伯母はなぜかしら安穏としている。語られない殺意の理由が愛情を支えているように思えるのは、そこに神秘の匂いがあるからだろうか。伯母が息子に我を、ないしは我の未来をおもわず見てしまったせいなのかもしれない。我が身を分け与えるものは、我が体内にわたしと異なる人を宿すようなものなのか。と言うのも、雲はいつだって霧から雨に落ちていくものだから。それから何十年の時間が過ぎて、「私」は伯母を一冊の書物としてめくり伯母の声を聞いている。古びた書物のなかに伯母は萎びながらも水分を得て「私」に語りかけると「私」は空想しているのだ。
 海岸に置かれた砂だらけの本が潮風に踊る毎、頁のあちこちから水分を含む叔母の声が吹かれているかのように。

”今は/『おばさま』というご本の何頁目でしょうか/もし/海辺に近い家から/おばさまに一等近い子から電話が鳴れば/と

わたしは/かなしいような静かさで/思っております

いつか/おばさまの全てが/白い雲になって/自由に/お会いできるのかもしれません”

 ここは錯然とした場面であって、電話が誰からのものなのか、息子なのか「私」からなのかわからない。したがって、それはそれぞれではなく、一番近しい者の謂いを表象しているとして受け止める。いずれが誰などとはあまり意味のない捜索だろうし、それよりも、もっと印象深く、とても気がかりなことは、電話の鳴り響くことを悲しく期待している「私」のことだ。悲しい静寂とは、伯母のいない海辺の家で鳴らない電話を示していることなのだ、きっと。

 R・マグリットの『勝利』(下図)という絵の白い雲は、断崖の上に立てられたキャンバスのこちらから、向こうへと往来する瞬間を見せる。しかも、こちらとあちらの風景の模様がまったく同じであることから、現瞬間の<境域>を超越しているイメージを与える。
これとまったく同じように、白い雲(=大好きなおばさま)はあちらからこちらへ、こちらからあちらへと、超越と言う勝利を(たぶん)微笑に置き換えて「私」との、あえかな接触を試みているように想像する。自由に会えるかもしれないと思うのは、不在の伯母とて同じ思いを抱いているであろうとも想像する。

 作者特有の語りかけの詩文に、いつも魅入られることだ。氏の産む単語たちは美麗に組み合わさり読者に届けられる。読者は苦しくも愉しみにして、それを解きほぐす。でもそのときに等しく微笑が浮かんでいるどうかは分からない。



 

相模文芸26号続き

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月18日(木)03時45分31秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  エッセイの中でも、やはりタイトルからして引きつけられたのは外狩さんの『血を売る』だろう。読者は誰もが暇ではなく、数分の時間も惜しんで生活に追われている者も多い。そうであれば目次を見たときに人の眼を引き付けることが大切なわけで、それは売れる店のディスプレーがいかに人間心理を考えてセッティングされているかを考えるとわかる。安易でつまらない題名はそれだけで多くの読者に素通りを許してしまう。その点、外狩さんのタイトルは申し分ない。内容も実に興味深く、売血と路上生活を経験した人しか書けないエッセイになっている。多少のフィクションを加えてもいいから、関わった人たちとの印象的な絡みや、自己の内面を医師の鋭いメスで切り取ったような描写を書きこめば珠玉の作品になるだろう。  

「苫小牧文学17」PARTⅡ──高岡啓次郎の随想・小説

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 7月17日(水)10時11分50秒 70.net059085004.t-com.ne.jp
返信・引用
  今回は、人間の“間”にポッカリ空いた穴について。
「特集エッセイ─酒三昧」中の高岡さんの随想によると、ご母堂様を亡くされた高岡さんは、長い間その痛手から抜けだせなかった。後悔の念が去らず霊園に何度も訪れ、墓前で空しい謝罪の言葉とため息を繰り返した。そんななかで“掌の小説”が書かれたという。
☆…★『赤ちゃん社長』(女の墓標から)=工務店を営む主人公は謙虚な人柄に加え男気もあり地元での信望もあつい。建材としては見向きもされなかったカラマツを独自の技術で合板化し、北国における地産地消をさきがけ的に実現した。そんな、地域の人々から愛された男に、なんとも不幸で無残な結末がやってくる。そこには傍目からは窺えない生い立ちからのイキサツがあった。
幼いときに母親を亡くし、父親にほったらかしにされ、小学生のときに父親が再婚した先で新しい母親になじめず……心にぽっかりと空いた埋めようのない空孔。グレてもおかしくないのに、学校では正義感あふれる少年として振舞っていた。
そんな彼に望外の春が。町一番の美人で幼なじみの娘と結ばれる。ところが後に明らかになったことなのであるが、結婚後の新生活開始と同時に度を越した赤ちゃん回帰が始まる。新婚当初ならいざしらず、止まる気配がない。
そして子を授かった。これで止むかと思いきや、不幸が襲いかかる。赤ちゃんはわずか3か月で亡くなる。回帰現象は一段とエスカレートしていった。この奇怪な夫婦関係が二人だけの秘儀として五十路を越えても続くのであるが、ここでさらなる不幸が。彼の存在基盤たる妻を失うのである。この時も、気丈に振舞う彼に異変の兆候は窺えなかった。
彼は年の瀬近くに妻の墓をたてた。やがて北国は真冬に。ある日、数十センチほどの雪が積もった霊園で、管理人が墓石を抱きしめるように凍死している男を発見した。墓石は母子像で、御影石を磨かずにそのまま彫り込んであった。★…☆
最初の方で「なんとも不幸で無残な結末」と書いたが、男にとって、このような死に方が本当に不幸で無残であったかどうか。もしかしたら自死によって心の空孔がようやく埋められたのかも……。しかしどうあれ、作者、高岡さんにとっては、この作品によって「何ら心の空白を埋めるものとはならなかった」。
高岡さんはそんな悶々とした心持のある日、霊園からの帰り道、車のフロントガラスからなにげなく茜色の西の空を仰ぎ見ると、夥しい数の山葡萄が道路沿いの電線に数珠なりにぶら下がっているのが視野に入ってきた。
日を改めて葡萄刈りを敢行、信じられない量の山葡萄を収穫した。アルコールが弱いはずの高岡さん、なぜか密造酒造りを思い立ち見事成功。この一連の出来事と作業は「僕を混沌とした精神的な穴倉から脱出させるきっかけを与えてくれた」。
翌年、二匹目のどぜうを狙うも山葡萄の姿はみえず。そして今年も。大収穫は亡き母の仕業だったか。
 

地平線19号  北海道

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月13日(土)02時51分29秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  華周芙英 あの夏のゆくえ
 昭和20年の5月、たったひとり札幌から疎開させられた小学一年生の登は叔母の家で冷遇される。そこで登はあからさまな差別を受ける。叔母家族からの無視、過酷な労働、薪小屋での粗末な布団、家族と離れたところでさせられる僅かな食事……  しかし涙が出ない。無理やり親元から離され、歓迎されない疎開生活に彼の心は凍りついていた。数週間が過ぎたころ、畑から帰る途中、見知らぬ人たちが近くで昼めしを食べていた。美味しそうな匂いが疲れきったすきっ腹にこたえる。草かげから見ていると一人の少年が登に握り飯を差し出す。だが、小さな胸にしまいこんでいたプライドが受け取ることを許さない。親の恥になるような気がしたのだ。やせ我慢でその場を去ったあと登は大泣きに泣き、悔しさと切なさに打ちひしがれ、自分が厄介者であることを身に染みて感じる。
 著者は戦後に生まれているようだから実体験ではないだろうが、心理や描写がよく書けている。古い言い回しや、漢字の使い過ぎが目につくのと、校正が不十分なために誤字や印刷ミスが多いのが残念だ。しかし、石狩に住む著者が才能のある書き手であることは間違いない。
 

「苫小牧文学17」PARTⅠ──『そこにはない痛み』(乾みやこ)

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 7月10日(水)11時02分23秒 10.net059085012.t-com.ne.jp
返信・引用
  高岡啓次郎様。「苫小牧文学17」および「ざいん16号」をお送り戴きありがとうございます。僭越ながら苫小牧文学よりいくつかの作品を紹介させていただきます。まずは『そこにはない痛み』(乾みやこ)から。
「人間」が「人」と同義語で使われるようになったのはいつからだか知らないが、確かに人は〈間=関係〉を欠いては生きられない。しかも〈自意識〉は、個々の革袋の中に存在するのではなく、人と人との接触面で生じる、と主張する高名な精神病理学の先生もおり、凡夫も、なるほど、と分かったつもりになっている。
そんなことを思いながら、送っていただいた「苫小牧文学17」をひもといていたら、タイトルからして我が意を得たりの作品があるではないか。『そこにはない痛み』(乾みやこ)、痛みはそこにはないのだ!?。
主人公(小夜子)の母は体調不良を錦の御旗に引きこもり。小夜子の父は甲斐甲斐しく妻の面倒をみていた。父が亡くなり、その役回りが自分に来る。同居を申し出るも孫がうるさいと断る一方で世話を焼いてもらいたくてひっきりなしに“来てくれコール”。母は仮病じゃないか!。小夜子はこの重荷にプラス、バツイチのシングルマザー。暮らしはおばの経営する花屋の手伝いで立てているが、このおば、ひとをこき使うゴウツクババア。そんなぎりぎりの生活に、追いうちをかけるように肩に激痛がはしる。医者に診てもらっても異常なし、と取り合ってくれない。最悪の状態で母の面倒を看ていたとき、とうとうブチ切れて罵り蹴飛ばし……。
不思議なことにゴウツクババアが、病院でしっかり診てもらえ、と休暇をくれる。診断結果はこれまでと大差はなかったものの、今度の医者は顔を逸らさず向き合ってくれた。小夜子はほっとした気分で帰宅し、効かないかもと思いながらも薬を服用、そして意識不明となる。間違えて指示量を大きく超えて服用してしまったのと、疲労の蓄積もあらあわれたのだろう。
その結果、なんと、痛みから解放され、そればかりか、小夜子の知らなかった母の過去をおばから知らされ、引きこもりの原因も納得。高難度の知恵の輪があっという間にはずれるごとく、関係のコジレが解けてしまった。どのように解けたかは読んでのお楽しみ。
ジコチュウ(自己中心)で捉えた関係図絵が本来的な姿と大きく異なっていた、というお話。痛みは消えたが、それでもシングルマザーの苦闘は続く。小夜子さん頑張って!(虚構の人を激励してもしょうがないか)
 

文芸えりも

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月 7日(日)22時57分24秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  えりも岬を舞台にした小説『海流』を現在執筆中ですが、友人に『文芸えりも』を見せてもらいました。その土地の風土を知るためには地元の文芸誌を読むとヒントが散りばめられているからです。バックナンバーの第十号に心ひかれる俳句がありましたので紹介します。
 鏡の奥    石森美恵子
物忘れして陽炎に躓けり
遠雷に心づもりの崩れゆく
短夜や自分の中にいる他人
心電図乱してゆける黒揚羽
しゃぼん玉生まれて宙を濡らしけり
更衣鏡の奥は過去ばかり
這いあがる海霧つぎつぎに牛を呑む

(よかったら、皆さんの同人誌を送って下さい。 053-0035 苫小牧市高丘6-238 定司方 高岡啓次郎)
 

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