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おおくぼ系作『花椿の伝言』

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 7月 4日(木)11時16分30秒 157.net059085001.t-com.ne.jp
返信・引用
  おおくぼ系様。『花椿の伝言』お送り戴きありがとうございます。失礼ながら感想文をしたためました。ご容赦を。
同作品は、サツマ県庁1980年入庁、幹部候補生たちが、 “まつりごと”の頂点を目指すサバイバル30年の物語である。薩摩隼人達を圧倒しリードするのはなんと80年入庁組主席の薩摩おごじょ “椿姫”。これに対し№4の〈俺〉はマバユイ椿姫光線にたじろぎながらも女は男に従うべし、とライバル心を燃やす──も、ままならず。
上司にいびられ、仕事を大量に押しつけられ、あせったはずみにマル暴に絡まれる。困った時の姫頼み? 姫の上手なアドバイスで窮地を脱する。
姫の上から目線に反発するも、蛇に睨まれた蛙のごとく固まる俺。「白銀坂の石清水に群生する椿を見に行こう」と、デートというより強制連行。咲き乱れる花椿、そして姫の裸身……なさぬまま終わった。女に組み敷かれるのはコケンにかかわる! とはあくまで表向き、真実は姫があまりにも神々しかったのだ。姫と俺はその後もなさぬ仲で終始した。ただ俺はチャッカリ〈智代さん〉と結婚、子も設けた。女房を〈智代さん〉と記述するところがおもしろい。
天命を知る歳に近づき、身の程知れり夜半の月かな。一方姫は独自の政財官ネットワークを構築し、副知事最有力候補にのしあがった。しかしその直後、突然のごとくやってきた悲劇、姫、花椿のごとく散る。
茫然自失、途方に暮れる俺。ポッカリ空いた空孔に酒をいくら注ぎこんでも底抜けだ。つながるはずもない姫の携帯に電話する。と、「ふふっ。姫への電話が遅かったわね。待ってたのよ」──長距離弾道ミサイル〈椿姫2号〉が頭上に落下!?
姫からの伝言が銀行の貸金庫に保管されているという。巨大な空孔に一筋の通路らしきものが浮かんできた。竹取物語ではかぐや姫が遺した手紙を読まずに不老長寿の薬とともに富士山の火口にくべてしまったが、俺はとりあえず読むことにした。そこには“まつりごと”の中核に存在する〈聖域〉についての記述があり、また政治資金のためと思われる3200万円に相当する国債が同封されていた。
同作品は昨年5月に単行本として上梓(九州文学社刊)されているが、未読の方の楽しみを奪ってはならぬので、結末は伏せる。ただ、姫の遺した伝言の〈聖域〉の記述は興味深い。
「たどり着いたまつりごとの中心は、まつるものと、まつられるもの相互で一体として形作られており、台風の眼のごとく何もない何かである。」そして、この〈聖域〉には「鏡に映るもう一人の自分もいる」。このもう一人の自分と「一体化できれば完璧な祭祀者、神にもなれ」る。そこには「共同幻想的なパワーが集積して」おり、これが権力の源泉となっている。姫はこのパワーを得て、革新的サツマノクニを創造しようとしたのであろう。
“まつりごと”は、国が地上に誕生してから今日まで、国が滅びない限り、政権がどう変わろうと継続され、しかもその根幹部分の、姫がイメージしたごとくの〈聖域〉は、まつりごとの意匠をどう凝らそうと変えようと、不変だ。
平易な表現でリズムカルで心地よい作品の、唯一難解部分を、捻くれて、敢えて照らしてみた。
 
 

相模文芸26号

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 7月 4日(木)00時00分5秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  創作を二編読んでみた。ひとつは五十嵐ユキ子さんの『水の上』  事故の場面から話は始まっていくが、聴覚をはじめとする感覚器官が異常をきたしており、水の上に漂っているような妙な気分に主人公はおそわれる。そして話の最後に自分が死んでいることに気づくという作りになっている。小池真理子が『水無月の墓』という短編集でこの種類の作品を連作で書いている。だから余程自分らしさを出さないと二番煎じになってしまう感が否めない。そこでものを言うのが文章であり、文体だろう。五十嵐さんの、アイディアを駆使して話を展開しようとする意図は大いに評価できるが、まだまだ文章や文体に磨きをかける必要があるかもしれない。シュペルベルが、死んだ娘が海上都市で暮らしている様を『海原の少女』という短編に書いているが模範にするといいかもしれない。それはやはり洗練された詩的な文章であり、一語の無駄もなく構成されている。次回も大いに期待します。

野田栄二さんの『怪説自画像』はエッセイ風の小説で面白く読んだ。話のとおりであるとすれば83歳にして、よくこれだけユーモラスで切れのいい文章を生み出せるものだという感じを受けた。とりわけ鏡を見て自分を描写するくだりや、隣の無節操な旦那と雨といの事で言い合う場面や、お墓に関する記述は読ませるものがあると感じた。愛猫とのやりとりはやや退屈な気がした。注文をつけるとすれば、この作品は創作ということですから、主人公のずるさ、いやらしさ、貪婪さなどの闇をおもいきりフィクションを駆使して書かれてみたらどうでしょうか。他の方の作品も後日とりあげたいと思います。
 

“しなやかな夜の手触り” 海邦智子 /『全作家』89号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 6月24日(月)11時24分25秒 130.net219126125.t-com.ne.jp
返信・引用 編集済
  手の物語である。手の様々な役目と言うか、機能と言うのか、それは「わたし」と「あなた」の関係の質を彩ることにつきる。手は他人との無関係の質と、喪えないかけがえのない質を打ち立てる。とくに後者は壊れてしまうと死に値するかもしれないほどの大切な質であるだろう。それほどに重要な手は、たぶん、そうした当たり前の役目をすらすらと難問を解くように担い、二人を結びつける天使の声のようなものに違いない。
主人公の、孤独な「私」にとって「彼」の振舞いはその声に近いのだ。

「私」は四十五歳の独身の女で二年前に母を亡くしてしまい、いま彼女の傍には三毛猫のマロだけだ。そして寂しい心を抱えて行きつけのバーで「彼」と他愛のない話をし、十七歳も年下の男の言葉に癒されている。或る夜の事、いつものように屈託を抱えた「私」のグラスを持つ手を「彼」が褒めた。綺麗だ、ちゃんと手入れしているんだね。いつも綺麗だなと思ってた、と言いながら「彼」はとつぜん「私」の右手を包み込み、あの温もりを伝えてくれるのを「私」は感じた。
この温もりは、

“男の愛情に包まれた夜も、酒に溺れ持て余した寂しさに膝を抱えた夜も、毎夜それを抱きしめて眠りについた。肌にしっとりとまとわりつく柔らかさに頬ずりをしながら、しなやかな体に手を這わせ、その奥から指腹に心地よく伝わる温もりに深く息を吸い顔を埋めた。”

この「柔らかい温もり」は二十年も生きている老猫のことだ。この猫が「私」に寄り添う時が唯一至高の瞬間であるが、偶然に「彼」が「私」の手を包むときに、「毎晩、自分を慰藉してくれる滑らかな質感と温もり」と同じだと「私」は直感するのである。母を失ってから「家族の喪失」を悼む「私」の体温が下がり始め、いまその冷たさを猫以外の者に、じつは求めていたということだ。
包まれたときに冷たさが融ける感覚に魅せられた「私」は「彼」と契約―毎晩「私」が眠りに入るまで手を握ってもらうという契約を結び、高くつくよと言いながら「彼」は契約を履行して「私」の部屋を訪れて手を握り締めてくれる。ただし「彼」は男として振る舞うことはしない。「彼」は安穏とか平安、つまり“アタラクシア”として温度を携えて「私」を暖かい睡眠にいざなうのであつた。家庭を失った虚無感、悲しみの感情に似た低体温の「私」に、いつしか「彼」は「私」の頬に触れるようになる。

”愛情はいらない。今はただその手の温もりだけがほしい。“

こう告げた契約の始まりはその終了を、「彼」の手という温もる関係性の生きた表象との別れを納得できるのだろうかと思い始める「私」。いつしか「彼」を愛していたことを思い出すようにして考え始める「私」。小説はここで終わるが、読者の中には「彼の手」が残るのだ。
手は悲しみに沈む人、虚無に震える人、寂しさに苦しむ人に対して、肩を抱き寄せ背中をさすり、頭をやさしく撫ぜまわし、頬に添え口づけの準備をする魔法である。そして人々にとっては、地にあてて立ち上がる行為を手助けしてくれる手立てにもなる。
しかしこの小説の「私」の手は求める手であって魔法でも手立てでもない。空中にもがいている手を通じて「私」は、もどかしい空中に夢に似たものを感じている。

“でも私はいつかどこかで確実に悟らなければならなかった。契約は永遠ではない。やがて訪れるその時に、この手を、絡めたこの腕を離すことができるだろうか。愛情はいらない…そう信じているはずなのに。”

「私」は喪失に悲しみ冷えている人で、「彼」は―詳しい描写は無いが―独り身だが「私」に興味は無く「高くつく」契約の報酬に興味を抱く男にすぎない。ふたりの行く末はそれほど期待はできないように思えるが、でもそれはこの小説の目的ではなさそうだ。「私」の求めているものはいったい何か、をどう読者は受け止めるかが主題のように思われる。

作者はかなり練れた文章を書かれる力を持つ作家だと感じた。また、素敵な表現が随所に散りばめられていて、甘い読後感が残る。短い枚数ながらも確実に内容を伝える、巧みな書き手だ、と思った。
 

高岡啓次郎様

 投稿者:『KORN』中山淳子  投稿日:2013年 6月22日(土)08時19分22秒 KYNfx-02p3-137.ppp11.odn.ad.jp
返信・引用
  『KORN』2号をお読み頂いて、ありがとうございます。掌編「北山散歩」は、納富泰子の小説と学術エッセイとの間の緩衝剤という性格を持たせたものです。的を射たご批評を賜り、嬉しく存じます。翻訳と考察「ドイツの伝説――グリム兄弟編集」は、かなりまじめに「心臓物語」というテーマを追求しました。グリム兄弟と言えば、日本では「グリム童話」という矮小化されたものが知られていますが、碩学グム兄弟のためには残念なことなので、あまり知られていない「伝説」の深さについて、少しずつ書いています。
文芸雑誌には異質なものをお読み下さって、お励まし下さることに、あつくお礼を申し上げます。
 

KORN2号から

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 6月20日(木)20時45分14秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  中山淳子さんの二つの作品にふれたいと思います。
『北山散歩』
 このエッセイ的な掌編はシリーズの第二回で、愛犬との対話を通して日常をユーモアラスに描く手法をとっているが、書かれている内容は必ずしも軽いものではなく、夫の病気に関する描写はリアリティがあり、作者の観察眼の鋭さを表しているように思う。第三回を楽しみにしています。

『ドイツの伝説 ー グリム兄弟編集』から「心臓物語」
 有能にして美しい騎士ブレンベルガーに関する物語を通して、ヨーロッパに昔から伝わる心臓物語の共通性と、起源を解き明かす。騎士が捧げるミンネ(既婚女性に捧げる愛)と、最終的には夫に見つかって男の方は心臓をくりぬかれ、不貞を働いた妻に食べさせるという、何とも残酷な復讐が語られる。知らずに食べた妻は「こんな美味しいお肉は食べたことがない」という。夫は秘密を明かし、お前が食べたのはあの男の心臓だ、と暴露する。妻はショックのあまり自死を選んでしまう。この話は歌劇や詩や小説の題材になっていろいろな形で顔を出すのだという。中山さんの翻訳は文学的で心地よい読後感を与えてくれる。こうしたお仕事を今後も続けていただきたいと望みます。
 

内海文学より

 投稿者:川原進  投稿日:2013年 6月11日(火)20時55分27秒 ntehme077134.ehme.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用
  丁重に読んでいただきありがとうござます。
susumu.kawahara1178@nifty.com
 

Re: ●●「内海文学」133号(愛媛県)

 投稿者:川原進  投稿日:2013年 6月11日(火)20時51分21秒 ntehme077134.ehme.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用
  >  星励「悲しき口笛」
>
>  昨年にオジの熊口武蔵は78歳で亡くなり、有津卓郎はオジの遺産整理にために生まれ育った新居浜の駅に降り立ちます。大きな建物があり、遠くの山並みはところどころ隠れていて、昔の面影は消えています。オジは母の実家を継ぎ、農業に専念し、結婚はしていません。国民学校しか出ていませんが、父親によると農作業に学歴は不要ということです。オジの姉妹は医師や教師になっています。オジの家は杉垣で囲まれ、池や竹藪があり、食糧難の時代には闇屋がひそかに訪れ、米や野菜などを買い込んでいたようです。卓郎とは十歳も離れていないので、よく遊んでもらい、オジは口笛が上手く、とくに美空ひばりの「悲しき口笛」は得意で、その他に「上海の花売り娘」や「湖畔の宿」など、印象に残っています。卓郎は東京暮らしなので、小学校しか出てないオジを見下しています。古希を過ぎて、オジという人物を見直すと、自分の浅はかさに気づき、申し訳ない気持ちです。
>  昔の農地や建物は登記漏れが多く、市役所や公証人役場さらに法務局などでの煩わしい手続きが必要であり、司法書士との慎重な打ち合わせが要求されます。整理まで何か月かかるかわかりません。
>  昔の農村風景は失われ、新しい住宅が建ち、町の統一性はまったく無視されています。時代の流れなのでしょう。卓郎はヨオロッパを旅行したとき、何百年もつづく町の趣きある佇まいに心を動かされましたが、生まれ育った新居浜の住宅や道路を見て、街づくりのポリシーのなさを痛感します。パーム公園で古い少女像を見つけ、かっては子供たちの夢が投影されていたのでしょうが、今では昔の遺物になっています。オジと卓郎そして少女像は時代に取り残された象徴のようです。懐かしい思い出も悲しい出来事も、もはや手の届かぬものになっています。
>  東京の支離滅裂な生活風俗が田舎都市にも蔓延していて、多くの人々がそれを文化といっているようです。失われた田舎の風景への哀惜の情が流れています。
 

“春の方法” 松田太郎 /『舟』151号

 投稿者:荻野央  投稿日:2013年 6月11日(火)11時50分10秒 171.net220148205.t-com.ne.jp
返信・引用
  “一篇の詩は/かろうじて一行にささえられている/それは恐怖の均衡に似ている”(田村隆一)

この冒頭の二行で詩に臨む者は躓く。読み進めてもいいのだが、頭の片隅にこの二行の内容が気になって仕方が無く、時折(振り返るように)最初の二行に戻ってしまう。ましてタイトルが「おそらく偉大な詩は」とあるから、しばらく考え込みそして空想から、やや虚ろな決断を下して、読みを再開することになることだろう。「冒頭から」躓かせる詩作品の読みは、読む者の快楽の予感に繋がっているとさえ言える。
「春の方法」は全20行の短い詩でありながら、冒頭の一行に目を奪われてしまった。途惑いから読みはじめ、ずっと心が途惑いつづけてしまった。

“葬儀屋の前で春が通過した”

春のイメージ。例えば桜であるとか、暖かい風とか、新芽とか…すると死とか狂気とかの異常の「予兆」に結び付けられてしまう。まして葬儀屋とくれば、ただちに(あるいは安直に)その結びつきに向かう。でも、よく読むと、「葬儀屋の前で」という文である。
前「で」?  地点だ、”そこに於いて”と言う意味の。通り過ぎるのだから、ほんとうは葬儀屋の側「を」通り過ぎるのがスムースなのに、春は通り過ぎながら葬儀屋の店の前に留まっていると詩人は語る。つまり去ろうとして(姿を消そうとして)そこにいる春が描かれているという具合になるのだ。しかも春と葬儀が容易に安直に直結する関係であることを思えば、そこへ桜の木の下にあるあのイメージがなだれ込んで、作者の意図が顕わになり、死は留まらず立ち去らず、重なる言葉による不合理を伝える。死や狂気を含む春は、夏に交替しようとして葬儀屋の前で常態と化して拒否している。どうしてなのだろう?

“陽は/かたむきかけている/イメージの蓄えを練り込み/で/さようなら
運河に沿って歩く/昨日も/今日も/注文していた本が届いている/それらを開くのにはまだ熟していない
知らない鳥が運河のまわりで羽を散らす/今日も動かない運河では/酸欠の魚が水面にまで集まっている/鳥は/番人から姿を変え獲物を狙う/数日後には/また/酸欠による大量の溺死体が浮かぶのだろう
ささやかなこの春に”

或る人間が登場して、何らかの意味で一杯になっている太陽(夏のイメージ)に別れを告げられて、しかも運河沿いを歩くだけしかすることが無い。その者は中途半端な春の陽気のなか、一人で運河沿いに浮かぶ腐敗の、ますますの増大を予感していると語られる。結論を与えようとする書籍をまだ読めないというその者は、気がついているのかもしれない。その腐敗は或る理由で増え続けることを。
何年か前の春に何が起きたか。その結果として中途半端な春と到来しない夏の間にはさまれてしまい、届けられた慰藉のような本を読むことができないが、確実に腐敗は増えるだろう、という作者の思いは、如何様にも取り得る詩の可能性をあざやかに見せつける。
何を見せつけているかを考え、妄想にも近い空想を羽ばたかせるのは読者の役割になる。

 

越田 秀男様

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2013年 6月 6日(木)08時32分18秒 p3098-ipbf1309sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
返信・引用
  東谷さんに関する知られざるエピソードを教えていただき有難うございます。『風の森』を可能なら下記に送っていただけるでしょうか? こちらからも何かを送らせていただきます。それと、東谷さんがお書きになった『小林秀雄とドストエフスキー』『19世紀のパリ風俗』『パリのシャンソン風俗奇譚』『パリの徳川埋蔵金』『パリ酒場 リヴィエール』などはどれも読んでみたいと思わせる装丁の本ですね。手に入れてみたい気がします。よろしくお願いします。
(053-0035 苫小牧市高丘6-238 定司方 高岡啓次郎 090-9435-1638 0144-34-5350)
 

追悼 東谷貞夫

 投稿者:越田秀男  投稿日:2013年 6月 3日(月)09時09分21秒 179.net059085002.t-com.ne.jp
返信・引用
  追悼 東谷貞夫
                                 越田 秀男
東谷貞夫(伯爵・神山宏)に初めて会ったのは双方が還暦を迎える少し前のことであり、東谷は翻訳会社の代表取締役、私は医薬系情報会社の編集記者、東谷の会社は私の担当する定期刊行物のクライアントであった。出会いからまもなく東谷は隔月刊ほどの冊子『風の森』を立ち上げ、私にも原稿を依頼してきた。私はその冊子を翻訳会社関係者のサークル誌と誤解して、しばらく仕事に関連する内容の話を随筆風に書き送っていた。つまり東谷が神山宏である(作家である)ことを私はかなりの期間知らなかったのである。それを教えてくれたのが皆川勤(久保隆)であった。
やがて皆川も同人に加わることになるが、なんと東谷は還暦を契機に自分でつくった会社をかなぐり捨てて『風の森』に専念することを宣言し早稲田の地に編集室まで設えた。東谷の文学観は次のような言葉で集約されるように思われる。
《表現とはみずから創り出す文体の妙である…略…その文体はいかにみずからの内面を言葉の力で表出するかに凝縮しており、読者に向っているのではない》(「図書新聞」10/10/02-6=以下同)
モーツアルトを呼び出して《モオツアルトの音楽を前にすると、感情や思想あるいは社会や政治などは無意味な虚妄になります》とも語った。文藝作品の価値は〈意味〉ではなく〈旋律〉にあり、解く前に聴け、ということであろう。
『風の森』は東京・新宿ゴールデン街の酒場の名を借用したものだ。《ゴールデン街はもともと秘密結社の巣窟のような雰囲気がありました。犯罪に暴力、売春に虚飾また反政府運動など、社会にとっては迷惑な事象の吹きだまり》とするものの、ゴールデン街を徘徊する東谷自身は無頼であったわけではなく、伯爵でありながら起業家かつダンディーであり、連むことの嫌いな孤独の影もあった。
東谷の虚構の世界は、このゴールデン街を“どこでもドア”のごとくの入口としてシュールな時空、メタフィジカルな時空へと誘った。私はこの東谷の怪奇な時空を幼少期に仲間と遊んだ秘密基地のごとくに楽しんだが、東谷はそこに死のイメージをも付加していた。
《シュールな空間では、魂の荒れ狂う刃傷沙汰においてよりも、時間の静止した透明な世界での死の影の美しさと哀しみを宿しているような気がします。》
東谷主宰の『風の森』は15号まで続いた。最終号は東日本大震災直後に発刊されたが、震災以前に描かれた表紙絵はまるでそれを予感するかのごとき修羅の風景であった。執筆を終えた東谷はこの時岩手の地で温泉に浸かっていたというおまけ付きで、命からがら日本海側になんとか逃れ辿り着くことができたのことであった。
その後『風の森』は同人体制に変更し昨年9月に復刊、東谷は結果的に最後の小説作品となった『憂愁の蜃気楼』を発表した。東谷の文体はいつもながらの、流れつつ転じつつの健筆であり、しかも大震災に遭遇した岩手も舞台に選ばれ、その体験がどのようにメタフィジカルに昇華されるか期待していたのであるが、続編はもはや望めない。
恥ずかしながら私事を申せば、昨年来、在宅ではあるものの療養生活の身となり、桜が散ったあとようやく仮釈放の身となり、東谷ら同人仲間と集う算段をしていた矢先の訃報であった。東谷が全国各地の同人誌作品評に取り組んでいることは知らされてはいたものの、「全国同人雑誌振興会掲示板」にこれほどの作品評を投稿していることをつい最近まで知らなかったのはなんとも迂闊としかいいようがない。
私の知る東谷の作品評は同人仲間に対してすら手厳しいものがあった。しかし大震災を境に取り組み始めた作品評は、温和で、己に引き込むのではなく、訪ねて聴き入るものに変わっていた。全国の優れた同人作品を紹介するという使命からは、当然といえば当然の姿勢であろうけれども、やはりそこになんらかの心境の変化を感じずにはいられない。しかしもはや聞き質すことはできない。合掌。
【追啓】『風の森』第2次創刊号、および15号の在庫があります。入手ご希望の方は送料含め無料で送付します。ただし、貴方様の参加されている同人誌と交換の形でお願いいたします。千葉県我孫子市中峠1649―9 越田秀男(koshida@i.117.cx)
 

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